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岩村暢子『ぼっちな食卓』(毎日読書メモ(546))

岩村暢子『ぼっちな食卓 限界家族と「個」の風景』(中央公論新社)を読んだ。昨年、同じ作者の『変わる家族変わる食卓 真実に破壊されるマーケティング常識』と『普通の家族がいちばん怖い 崩壊するお正月、暴走するクリスマス』を読んで、現代日本の家庭の食はどうなっているんだろう、と驚愕したが、昨年刊行されたこの新刊では、具体的な食事の内容ではなく、食を切り口として、家族関係がどのように変容して生きているかを考察している。

「食卓」を定点観測の場として、1998年~2009年に初回調査をした240家庭のうち、10年後に追跡調査が可能だった家庭で有効サンプルとなったのが89家庭、20年後に更に捕捉出来たのはそのうち8家庭。調査結果から変化の経緯を読み解いているのだが、この調査が、大変丹念なもので、(1)アンケート調査 (2)1週間の食卓の日記と写真記録(デジカメだと加工できてしまうので、「写ルンです」を現像しない状態で提出) (3)個別詳細面接調査(1.5時間)という、よほどの気持ちの余裕がないと受けられない調査。
これだけ手間のかかる調査だと、逆に、調査母体が偏るだろうと推察される。本文を読んでいると、調査対象は最初から女性に限られている感じで、それもフルタイム勤務の会社員とかはほぼおらず、専業主婦、または追加調査の頃にはパートで仕事をしている、という感じの人が多そうだ(調査対象の人のデータは本の中で明示されていないので、読者には全貌はわからない)。
本作中では、具体的な食卓の写真等の掲載はなく、食べているものについても具体的には記載されていないため、食の変遷をこの本の中から読み取ることはできない。
もっとgeneralな、家族の在り方について論じる本となっている(もともとそういう目的で書かれたのか、結果的にそうなってしまったのかはわからないが)。

この調査から見えたのは、家族の解体が一気に進んでいるようだ、ということである。子どもの自主性に任せる、それぞれが自分の好きなものを食べればいいじゃない、と言って、家族の食事の用意をしないで、みんな、自分が食べるときに、自分の食べたいものを買ってくるようにしているという家庭が沢山出てきて、調査の1週間の間(21食)、家族で食卓を囲むことがなかったり、同じ時間に席についていても、めいめい自分の食べたいものを買ってきて、レンチンとかカップ麺とか、最低限の加工をして食べている家庭が多いという様子が書かれている。
他にやることが沢山ある、という錦の御旗の元(錦の御旗なのか?)、食に費やす労力がミニマイズされている。そして、興味深いのは、子どもが小さいときはもっとちゃんとやっていたんだけれど、というエクスキューズにもならない言い訳と、でも、調査者が10年前の記録を確認すると、10年前の時点で、調理して家族でそれを食べるという習慣は既に放棄されていた事例がきわめて多い、ということである。やっていたという記憶の捏造? そうやって、家で料理に手をかけることがなくなった人が、外では食育アドバイザーをやっていたりすることもある、という言行不一致。
被調査者本人、或いはその家族が、不摂生な食生活も一因となっている生活習慣病になっているのに、食事の内容に気を留めていない事例。食卓の買い替えの際に、家族の人数より小さいテーブル、人数より少ない椅子しか買わなかったり、そもそもテーブルを捨てて食事の場がなくなっていたり。居間に自分の居場所がなくなり、寝室のベッドの上で、自分で買ってきた食べ物を食べながらゲーム三昧の父親とか。
個の尊重? 自分の時間が欲しい? 勿論、四六時中家族と一緒にいれば気が詰まったり、嗜好の違い、見るテレビ番組の違いから揉めたりすることもあるだろうから、それを回避したいという気持ちになることもわかる。
家族がお互いを思いやるとか、心配するとか、そういうのは幻影なのか? お互いに興味を持てない家族? 夜遅くまで連絡もせずに帰ってこなかったり、外泊したりしていても、自分のバイト代でまかなっているなら口出しは出来ない、という親。そういうもの? 引きこもりとか、家庭内暴力とか、そういう問題は別世界なのか陸続きなのか? 

読んでいて、自分の価値観と違いすぎる家族像がこれでもかこれでもかと出てきて、めまいがしてくる。
別に自分が理想的な生活を送っているとは思わないし、家族の生活時間がずれたり、外で人とご飯を食べてくる日もあったりで、いつもいつも家族と一緒に食べているわけではないけれど、その日食事をとる予定の家族の分はおかずを考え、ご飯を炊き、諸事情でそれが消化されなかったら、翌日に繰り越して使いまわすことを考えているが(子どもが学生の間は弁当のおかずも考えたし、今も自分が出勤するときは、前日の食事の残りから弁当のおかずを取り分けるように計算している)、それって誰でもとは言わないが、一定比率の人はしているものではないのか? みんなそんなにそんなに忙しいの?
変わる家族変わる食卓 真実に破壊されるマーケティング常識』の感想にも書いたけれど、食べることに興味のない人が増えているってことなのかなぁ。一日3食くらい食べないと、お腹がぺこぺこで、身動きとれなくなっちゃうので(それもきっと個人差あるんだろうな)、毎日何回も食べなくてはいけないなら、できるだけ変化に富んで、それぞれに味わい深く、おいしいものを食べられた方が幸せではないか、と思うけれど、そう思う人の方が少ないのかな? SNSとかで、美味しいもの、彩り豊かに盛り付けられた料理の写真とかいっぱい見るけれど、そういう食事はイベントで、ふだんは霞を食べて暮らしているのか?

文明の利器とか、労働環境の激変とか、おそろしいまでの飽食とか、少子高齢化とか、非都市地域の過疎化とか、地球温暖化とか、食だけでなく、わたしたちの生活全般が、百年前、五十年前、三十年前、十年前とは全く違うものになってきているので、そうした情勢の中で、別に過去と同じ生活スタイルで生活する必要はないというか、不可能なんだけれど、その未来が、誰もが宇宙食みたいなチューブから口の中に食材を取り込む食に転換していくってことなのか(自分自身の子ども時代、学習雑誌とかに未来の生活、として描かれていた情景の中に、そういう、宇宙飛行士が食べていた宇宙食の食事の光景もあったような気がする)? そういう味気無さは社会の必然なのか? 『普通の家族がいちばん怖い 崩壊するお正月、暴走するクリスマス』で衰退が論じられていた行事食(おせち料理とか)なんて、絶滅寸前ってこと? 料理研究家が提案する美しい食事は、つかの間の、打ち上げ花火みたいなものなのか?

うそ寒さと、わたし自身が自己正当化のために、自分の現状とか過去とかを粉飾しているんじゃないかという不安。そして、もしこの本に書かれていることが現在の家族関係の典型なのだとしたら、五年後、十年後、二十年後の家庭、そして社会は更に変わっていくのか? それはよりよく生きたいという人々の気持ちに沿ったものになっているのか? 食が最優先でないとしても、それ以外の事象も含めて、今よりも幸福な生活を送れるよう、人は努力できているのか?
ぐるぐると考え続ける。


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