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岩村暢子『普通の家族がいちばん怖い 崩壊するお正月、暴走するクリスマス』(毎日読書メモ(508))

Twitter(とはもう言わないか)で、岩村暢子さんの新刊『ぼっちな食卓-限界家族と「個」の風景』(中央公論新社)について語っているツイートを見て、なんとなく気になったので旧作を読んでみる。岩村暢子『普通の家族がいちばん怖い 崩壊するお正月、暴走するクリスマス』(新潮文庫)。
岩村暢子さんは、広告会社アサツー・ディ・ケイの200X ファミリーデザイン室長として、食卓文化を中心テーマに、日本人の消費行動の情報収集・分析を長年続けてきた。現在は大正大学客員教授、女子栄養大学客員教授等をつとめている。
膨大な聞き取り調査(写真記録を伴う日記式調査+グループインタビュー調査)を、1999年~2000年と、2004年~2005年に行い、この2回の調査で
「フツウの家族の実態調査(クリスマス・お正月編)」について、得られた知見の中から、現代の食生活について分析している。これ以前から『変わる家族 変わる食卓- 真実に破壊されるマーケティング』(中公文庫、未読、これから読みます)等で、現在の日本の「家庭」における食生活について、聞き取り、分析を行ってきたのだが、いわゆる行事食に特化して、見えてきた現代日本の家族像を語っているのが本書。

統計ではないので、色々な事例を紹介しながら、そうした傾向が全体の何割を占めるとか、そういう論調にはなっておらず、結果的にみんながそうなのか、ということまでは断言していないのだが(実際、手間暇かかる調査に対応してくれる人、というところで既にある程度調査母体にバイアスがかかっていることは、作者自身が認識しているし)、取り上げられた事例を読む限り、20年前の時点で、日本の伝統食を守る、という気持ちが、台所を守る「主婦」の中から消え失せているように思われる、ということがありありと見えてくる。
いや、伝統食って何よ、って話ではある。
家庭は大きな密室であり、その中で何を食べ、人が育ってきたか、それは人それぞれなんだと思うが、もはや傾向のようなものすら存在しないのかもしれない、ということが、行事食(要するにお節料理ですね)についての聞き取り調査から見えてくる。

自分語りをしちゃうと、わたしは子どもの時からお節料理がとても好きで、高校生くらいの時から、大晦日は母の手伝いをして、お節料理作りの手伝いをしてきて、結婚した後は、夫の実家でお正月準備の手伝いをして(やり方が実家と違ったので疲れてよれよれになっていたが)、義母の調子が悪くなって正月準備が出来なくなったあとは、自宅で自己流のお節料理を作るようになった。メニューは料理本を参考にして、スタンダードなものと新しいものを織り交ぜ、娘たちにも高校生くらいから、時間のある時は手伝わせて、お節料理の準備をしてきた。母が作っていたお節も、料理本を参照にしたもので、特に自分の母とか姑から習ったもの、という様子はなかった(父母両方の実家が遠かったので、正月に帰省したことなく、母は結婚以来ずっとお節は自分で用意してきた)。

しかし、本の中には、こういう事例は一つもなかった。え?、誰もお節料理って作ってないの? 紹介されたのは、どちらかの実家に行って、義両親または両親の作っているお節を食べるだけの人、既製品を買った人、作ったと言い状、既製品を買って、一部の料理(蒲鉾?)は切り(それって調理?)重箱に詰めただけの人、と言った事例だけ。
お正月から、買っておいた菓子パンやカップ麺などを、めいめい好きな時間に食べているだけの家庭も散見された。
お正月の準備がいやだから、と、元旦は旅行に出ている家も。旅行先でお正月っぽさを味わえればいい、と。
うちの子どもも確かに小さい頃はお節もお雑煮も喜ばなかったが、成長に伴い徐々に食べるようになった。しかし、本で紹介されいている家庭では、強要しないまま、食べる習慣自体がなくなっていく事例ばかり。
お屠蘇の話題も出たが、一部、実家の親に強要され、いやな思いをした、という事例があったものの、現在習慣的にお屠蘇を家族でいただく、という事例はなかった。これは我が家も一緒で、これは実家の母がお屠蘇をいやがった(確かに美味しくないのだが)ので、自分の中で習慣化されていなかったというのも大きい。一度だけ、お正月に生協で味醂を買った時に、屠蘇散がついてきたことがあり、試してみたことがあるが、いや、これはないなー、と思ったので、お屠蘇の習慣が衰退するのはやむを得ないよな、と思う。伝統の担い手として生きている人はそうそういないと思うし。

お正月についてついつい語ってしまったが、お節に興味のない主婦たちは、逆にクリスマスには力を入れているらしい、という事例が。
例えば家の電飾。確かに調査をした2000-2005年頃って、クリスマスの電飾がめっちゃ流行っていたと思う。うちの近所でも、マンションのベランダや大窓などに派手な電飾がほどこされ、ピカピカしていて、テレビのローカルニュースが取材に来ていたことがあったよな、と思い出す。今は、子どもが大きくなったこともあってか、すっかり下火になって、電飾やっている家は殆どなくなってしまったけど、たぶん今もやっている地域もあるんだろうな。
電飾にならどれだけエネルギーやお金をかけてもいい、と語っている人。えー、電飾でテンション上げるとそんなに楽しいのかな。家の飾りつけとか、クリスマスツリーとか、クリスマスっぽい演出に力を入れ、子どもがいつまでもサンタクロースの存在を信じるように仕向け、子どもたちにクリスマスケーキのデコレーションをさせて、喜ぶ姿を見る自分が大事。
一方で、クリスマスの食事は買ってきたフライドチキンを箱に入ったまま食卓に出して食べ、御惣菜のサラダやオードブル、カットフルーツを食べる。

わたしが胃袋主体で考えすぎなのかな? デコレーションとかは必要最低限でいいから、自分が食べて嬉しいもの、美味しいものを美味しく見える盛り付けで食べたいと思うんだけど、それって少数派なのかな?

と、行事食に特化した本書を読んでいると、わたしとはちょっと違うぞ、と思ってしまうのだが(対面の聞き取りもグループインタビューなので、同調圧力的な傾向がある程度は出たんじゃないかな、と推測)、でもこの本は、こうした食生活と、生活態度を糾弾しようとしている訳ではない。家族みんなで過ごしたり、盛り上がったりすることが想定されるクリスマスやお正月ですら、目的は家族の団欒とかつながりとかではなく、聞き取り対象であった主婦たちが、家族のためというよりは、自分にとって心地よい状態を追及しているのが、現在の家族の姿であり、それは、家族の一体化ではなく、逆に、家族めいめいが勝手に行動し、自分がしたいことをしたいときにして、食べるものも自分の好きなものを食べて過ごすようになっていく、それを象徴していることをあらわにしているのである。
それは、わたしも一緒だ…自分のしたいことをして、それに家族を付き合わせ、都合のいい時だけ家族参集、というのは、この本で、取り上げられている人たちと何ら変わりないや、と気づかされた。

家族とか食卓は変容している。伝統は絶えてしまうのかもしれない。
でも、そもそも受け継がれるべきものって何だったんだろう?
家制度の中で窮屈に過ごしてきた人たちが解放されるのはそんなによくないことか? それによって食の貧困が導かれるのは寂しいことではあるが、わたし自身が、またわたしの親世代が見てきた常識とか、慣習が、何百年も続いてきたものではないだろうし、今突き進んでいる「個の尊重」という御旗の元の孤独な生き方が、この先のコモンセンスになるかどうかもわからない。
定点観測的に、食というアプローチで日本人の生活を把握し、分析することは意義のあることで、それは広い目で見てマーケティングにも活かされることだと思うが、それを、第三者が幸福とか不幸とか円満とか歪とか、判断することは出来ない。変わっていくものを分析することは出来ても、変化を止めることはきっと出来ない。

見つめることで、自分で改善できるポイントを探すことは大切かな、と思うけれど。

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