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『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』(川本直)、アメリカ文学史のはざまを読む(毎日読書メモ(279))

川本直『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』(河出書房新社)を読んだ。この本を知ったきっかけは、朝日新聞の書評欄に著者インタビューが出ていたから(ここ)。

トルーマン・カポーティら米国文学史を彩る作家たちと交流した「異色の作家」ジュリアン・バトラー。その生涯をたどる作品だ。
女装したジュリアンはスキャンダルを起こしながら、名作を多く残している。同性同士の性交が犯罪とされていた1954年刊行の『ネオ・サテュリコン』は、クィア文学の先がけだ。ディオールのドレスで女装した主人公は、ウラディミール・ホロヴィッツのコンサート中にパートナーと交わる。雑誌掲載されると、批判が嵐のように巻き起こった。
これほどの作家なのに日本では1文字も紹介されてこなかった。なぜなら、実在しないからだ。

https://book.asahi.com/article/14481740

(本の紹介として、「日本では1文字も紹介されてこなかった」は雑だ。最後までこの本を読めば、日本での紹介の経緯もきちんと書かれている、まぁ、そこも虚構なんだけれど)

架空の作家を作り出して、実在のアメリカ文学史に切り込んでいるのか! どういう仕組みだろうと気になって、ワクワクと読んだ。
表紙は、TANAKA AZUSAが描いたジュリアン・バトラーの肖像。読み進めるにあたって、若干イメージに引きずられる感はあるかも。
読み始めて、これはジュリアン・バトラーについて書かれてはいるが、主人公はジュリアンではなく、ジュリアンの生涯の陰のようについて歩いた作家・評論家ジョージ・ジョンである、と知る。
ジュリアンとジョージは、フィリップス・エクセター・アカデミーというボーディングスクールで同室となり出逢う。既に女装し、同性愛(この本の中ではゲイではなくホモセクシュアル、ということばを使っている)傾向をはっきり示していたジュリアンに、最初は戸惑いを覚えるジョージだが、次第にジュリアンに惹かれ、一線を超えることとなるが、それは「愛」だったのか、という疑問は生涯ジョージに付きまとう。ジョージはずっとジュリアンを庇護し、ジュリアンの小説世界を守ることに腐心する。
その過程を、自分の死後発表するように、と遺言して書いたのが、ジョージの別名アンソニー・アンダーソン名義の『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』と言う作中作。枠小説の中に、更にジュリアン、そしてジョージ自身が発表した小説が丁寧に書き込まれ、その文学的な立ち位置とか、小説の映画化とか、テレビの生番組で作家たちが討論するシーンとか、実在の作家や芸術家たちとの絡みも、いかにもありそうな感じで構築されている。
それは、例えば原田マハの小説の中で、架空の主人公が有名な芸術家の生涯に深くかかわる過程を描いているのとちょっと似たような感じ(『リーチ先生』の亀乃介とか、『たゆたえども沈まず』の重吉とか)だが、更に踏み込んで、架空の小説『ネオ・サテュリコン』(冒頭の部分が引用までされている)(そしてオリバー・ストーンが映画化したことになっている)とか、古代ローマ皇帝ネロを題材にした『空が錯乱する』(「ネロ」とタイトルをつけられた映画がモンゴメリー・クリフト主演で製作されアカデミー賞を9部門で受賞した)とか、ケン・ラッセルが監督してツイッギーが主演した『終末』とか、ジュリアンとアンディ・ウォーホルの友情とか、出演したテレビ番組で酔っぱらった作家たち(トルーマン・カポーティ、ゴア・ヴィダル、ノーマン・メイラー、そしてジュリアン・バトラー)が殴り合いのけんかをしている背後でザ・ローリング・ストーンズが「ストリート・ファイティング・マン」を演奏していたりとか。
作者は元々ゴア・ヴィダルという、日本ではあまり知られていない作家の愛好家として、渡米してヴィダルのインタビューを行ったりしているということで、作中にもヴィダルはかなり出てくるが、ヴィダルのアナザーライフをジュリアンに投影するように、共に同性愛文学をアメリカ文学史の中に根付かせてきた存在として描いている。マッカーシズム吹き荒れる第二次世界大戦後のアメリカで、同性愛も激しく糾弾され、ジュリアンの小説もアメリカやイギリスではとても出版できる状況でなく、(もっと昔だが、オスカー・ワイルドも英国で出版できない作品をフランスで刊行していたように)フランスの出版社から刊行された小説が好事家の間で話題を呼んで少しずつ知られるようになったところとか、ゴア・ヴィダルとトルーマン・カポーティの確執とか、作品全体に通奏低音のように潜むヘミングウェイへの反感(反マチズモ?)、とかビートニク文学への言及とか、わたしの浅薄なアメリカ文学史への理解ではすべてを吸収することは出来ていないが、文学の潮流の中にしれっと、何人もの架空の作家たちを入れ込んでいる力業に感銘を受ける。
ジョージの手記が298ページまでで終わった後、川本直の「ジュリアン・バトラーを求めてーあとがきに代えて」という文章が84ページにもわたって繰り広げられ、ありもしないWikipediaへの言及とか、ジョージ・ジョンへのインタビューの経緯とか、日本でのジュリアン・バトラーの紹介履歴(吉田健一が翻訳したり論評したり、多田智満子が翻訳したり、三島由紀夫がジュリアンに手紙を送っていたり)、インターネットのない時代だったら、裏の取り方がわからず信じ込んでしまう人のいそうな虚構の数々。
ジュリアンは描かれた姿でしか残っていないので、何を思っていたのかはよくわからない。小説は終始、ジュリアンを見つめ、護り続けたジョージの苦悩と歓喜を描き続けていて、二人が長く住んでいたイタリア、アマルフィの美しい海景とあいまって、美しい余韻を残す。

主要参考文献の項も、14ページにわたる丹念なものだが、実在するものと架空のものが入り混じっている。ここは、太字と細字に分けるとか、アスタリスクを付けるとかで分別できると親切だったのではないかと思うが、まぁこの部分まで「本書はフィクションです」の範疇と思えば、参照しながら架空のものと本物を識別するのも読書の愉しみのうちかもしれない。

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