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鮎歌 #02 [エッセイ] 万年筆と職人

 何か、書きたいというときがある。

 けれども、真っ白なディスプレイを見て、「何を書こう」と打ち込んでいる。結局、とくに何も書くことがないまま、パタンとPCを閉じる。

 これまでに何度もある。最近は、それをノートや原稿用紙でするようになった。万年筆をにぎって、さも書きます、というふうに。しかし、枡目があるからといって、それがすらすらと埋まっていくものではなく、また、「何を書こう」と書いている。

 とはいえ、それでも何か書きたいという気持ちは湧いてくる。そういうときは、他人の文章を書き写すことにしている。

 ノートや原稿用紙に、一字一字ていねいに書き写していく。他人の言葉を、乱雑に扱うことはできない。トメとか、ハライとか、とくにお習字をしていたわけではないが、記憶を呼び覚ましながら、紙の表面を引っ掻いていくように、彫刻をするように書いていく。

 すると、不思議なもので、何か、書いている気がしてくる。ただ書き写しているだけなのに、自分が書いたもののような気がしてくる。そうして、原稿用紙が数枚、手書きの文字で埋まっているのを見ると、満足感を覚えている。

 ──ただ、原稿用紙を埋めたかっただけなのだろうか? と思ったりもするが、つい、凝り性なので、いつのまにか道具へのこだわりに発展している。

最初はパーカーの万年筆(ジョッター)で書いていた。安価で買えてしまう万年筆だが、針のように細い字が書ける。ちいさな手帳を使うときに重宝する。

 しかし、原稿用紙に書くには、あまりに細いペン先では何か物足りない。そこで、憧れだったペリカンのスーべレーンを買った。せっかく詩集を出したのだからと、出版記念のプレゼントとしてネットで注文。届いてまもなく、わくわくする気持ちで、開封し、万年筆をにぎってみる。独特の手触り感。つい、ずっと触っていたくなるような質感で、これでなら気持ちよく書けると思って、いざインクをつけて書いてみると、「太い……」と、声に出してしまうほどに、太い。

 さらに、インクがドバドバと出て、いつまでも乾かないので、一行書いたら、手を浮かせて書かなければ右手も、文字も、擦れて真っ黒になってしまう。これは本当にM(中字)なのだろうか……

 いつか、大江健三郎がおもしろい握り方をして、宙に浮かせながら原稿を書いているのを見たことがあるけれども、あれはそういうことだったのか、と納得しそうになったが、彼の文字は、こんなに太くない。これでは使い物にならない。しかし、高価なものなので諦めるわけにはいかない。ペン先の調整ができるのか検索すると、万年筆を調整するというお店がヒットしたので、すぐさま予約した。

 その日は、共通テストの日だった。雪が降って、とても寒かった。はじめて降りる駅で、凍えながら歩いていくと、「昭和」がまだ生きているような佇まいの味わい深いお店があった。ごめんくださいと扉をあけると、所狭しと工具がならんでいる。「ちょっとお待ちください」と言われて、狭い通路にかろうじて置いてある椅子に座って、小さなブラウン管テレビを見ていた。サッカー中継が流れている。大粒の雪が降っているのが見える。そのなかで、小さな選手たちが走っている。音もなく。そこに、「お待たせしました」と、店主がゆっくりとやってきた。額に大きなレンズをつけて、単眼巨人(サイクロプス)のようないでたちで。

「ペリカンでしたね」と言って、差し伸べられたインクで真っ黒になった手にスーべレーンを手渡すと、店主は瞬く間に解体していき、ペン先を超音波の機械にあてて洗浄をはじめた。そのうちに、レンズを装着して、ペン先を見つめて言う。

「ペリカンはもともと個体差が大きいうえに、最近、リニューアルしましてね。どれどれ。あー、太いねえ。インクもすごい出る。これは絞らないとね。そういえば、インクボトルが透けてるデザインだったのに、中が見えなくなっちゃったんですよね。インクの残量が見えないと困りませんかね。まだ、そんなに新しいタイプの持ってくる人いないから、特徴を捉えきれてないんですけど、仕様は随分変わりましたね。もう少し、本数見てみたら、特徴もわかってくると思うんですけど」

 細かなペン先を見つめながら、よく話す。あんなに細かな世界を見つめつづけた眼は、どうなってしまうのだろう。孤独な細道に迷い込んでしまったから、助けを求めるように声をあげているのだろうか、と考えているうちに、何やら歯医者のような機材で、ペン先を削り出す。そのうちにも、よく話している。光にあててみたり、いろいろな角度からみてみたり。そして、これくらいかなと言いつつ、測量野帳ノートを開いて、試し書きをさせてくれる。書いてみると、随分細くなっている。これなら、日常でも使えそうだった。

「これはもう、EF(極細字)より細いですね。インクはだいぶ絞ったけど、これ以上やるとかすれて書きづらいかもしれない。すらすらとは書けなくなっちゃうよ」

 何度か線を書いてみると、たしかに、ある角度で少し掠れがでる。こういう調整をし続けるのが、万年筆の職人なのだ。

「こういう職人さんは、全国にいらっしゃるんですか」
「ここ25年くらいで、だいぶ減りましたね」

 この25年でいったい何があったのだろう。さまざまに思いをめぐらせる。

 そういえば、最近アニメを見ていると、こんな言葉に出会った。

「何かを手軽に済ますと、何かが鈍くなる」

『ダンジョン飯』

 たしかなことは言えないけれど、25年のうちに、ぼくたちは鈍くなっているのはたしかのような気がする。25年は、携帯電話の年齢なのかもしれないし、パソコンの年齢なのかもしれない。だいたい、それくらいだ。

 もちろん、仕事でも、何でも電子機器を使わないではいられない。でも、詩は、効率とはどこか無縁だ。何か書きたいと思って、他人の文章を書き写しているのは、詩に向かうための助走なのだろう。詩を書くとき、遠回りをしたい気持ちになる。ゆっくりと、一字一字、彫っていきたい。インクのムラや、滲み、掠れ、そういうものと一緒に、ぼくの手癖が出る。ディスプレイに、無限に美しい文字が羅列していくものとは、どこか対極にある、不揃いなもの。いまでは、調整してもらったスーべレーンを毎日使っている。

 結局は、活字になるのだけれど、その活字になった文字に、少しだけ、この万年筆の色むらが、滲んでいるといい。

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