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鮎歌 #03 [エッセイ] 『PERFECT DAYS』を生きること。

※本稿は映画「PERFECT DAYS」(2023)についてのエッセイです。多少のネタバレを含みます。

 竹ぼうきの音がする。目覚め。起き上がって、布団をたたむ。顔を洗って、髭を剃り、植物たちに水をやる。着替えをして、玄関にならべた鍵や小銭をとって、家を出る。

 ありきたりな日常。終わりなき日常。そんなふうに呼ばれた、いつものこと。

 ただ、それだけを2時間、濃密な眼差しで描いた映画が「PERFECT DAYS」(2023)だった。

 たぶん、「暮らし」とか「日常」とか、そういう言葉はコロナ禍も含めて、ぼくたちの意識に浮かび上がる大きなテーマの一つだったと思う。スマホも、AIも、ぼくたちの生活を大きく変えていく時代に対して、この映画は、一つの解答を示している。

 「日常」は、「仕事」であふれている。身支度でさえ、外に出るための仕事だ。勤めにいくのであれば、1日の大半は仕事になる。そもそも、食べるための作業が「仕事」だったことを考えれば、食事の準備をすることも「仕事」だ。

 人は、1日のほとんどを「仕事」をして過ごす。それはくる日もくる日も同じようなことを繰り返す退屈な時間。それゆえに、非日常を求めて「旅」をし、長期の休みにはどこかへトリップする。

 ぼくも、そういう毎日を詩集にも描いた。ずっと、帰り道にいる。そこだけが、自分の息ができる場所としてあって、「仕事」は、何か自分を抑圧するものとしてある。もちろん、世の中、勤め人ばかりではないが、起業家であっても、毎日仕事はするものだ。少しだけ、仕事による自己実現の喜びが異なるくらいだろう。

 そのなかで、この映画の主人公・平山(役所広司)は、トイレ掃除を仕事として、毎朝5時15分に起き、5時30分に家を出て、東京の公衆トイレを清掃してまわる。昼は、いつもの神社の境内でサンドイッチを食べ、高く伸びた木の葉をフィルムカメラにおさめる。夕方になれば仕事を終えて銭湯に行き、一番風呂に入って、そのまま地下街の居酒屋にいく。帰ってからは眠くなるまで古本を読む。そういう毎日を送っている。

 平山は、寡黙だ。トイレ清掃スタッフの若者とも、二言三言声を発するばかりで、ほとんどしゃべることがない。それでも、表情は豊かで、それぞれの瞬間で笑ってみせる。トイレの清掃も余すことなく綺麗に磨きあげ、それを他者に誇るでもない。いま、このときをどこか楽しんで生きている。作中で、節をつけて歌われる「今度は今度、いまはいま。」という科白が、きっと、この作品の根っこにあるメッセージだ。

 こうした、「日常」のルーティンを描くのは、どこかYouTube的なものがある。芸能人から一般人まで流行った「モーニング・ルーティン動画」。また、最低限の物しか持たない生活様式も、どこかミニマリスト的なものを感じる。音楽もカセットテープで聴き、読書は古本屋で買った文庫本。カメラもフィルムカメラ。植物を育てるのが趣味。平山という男は、スマホも持たず、ネットに接続しない。「Spotifyっていうお店はどこにあるの?」と聞いてしまうくらい「現代社会」との距離を持った人物として描かれている。にもかかわらず、どこか、この時代の潮流への反動そのものを体現したキャラクターを持っている。ただし、きっと、平山は、反動としてではなく、はからずも、アナログで、そこに辿りついたのだと思う。

 それと、ぼくがいちばん気になったことは、彼が撮る写真だった。平山は、朝の出発時に、鍵やコインを持っていくが、そのなかに小さなフィルムカメラがある。それを、作業服の胸ポケットに彼はいつも仕舞う。そして、昼食時に、神社の境内に生えている木を見上げて、「木漏れ日」の写真を撮るのが習慣になっている。さて、その写真をどうするのかと思って見ていると、休日に、コインランドリーで洗濯を待つ間に、町のカメラ屋に行って、ほとんど作業のように現像する。その場では、中身を確認せずに、家に帰って、畳の上に大きな缶を置いて、一枚一枚現像した写真を見ていく。いい写真は缶のなかにおさめ、悪い写真は破って捨てる。そうして、缶の蓋を閉じて、押し入れに缶を仕舞う。押し入れには、日付の書かれた缶が、ぎっしりと詰まっている。

 それだけ。アルバムを作るでもなく、しばし、撮った写真を鑑賞するでもなく、ただ、箱に仕舞うだけ。平山にとって写真は、そういうものなのだ。Instagramにあげて、みんなから「いいね」をもらおうという発想が、なんだか恥ずかしいものにさえ思えてくる。

 写真を撮ることも、絵を描くことも、詩を書くことも、「いいね」をもらうためじゃない。ただ、撮って、描いて、書くことだけが、楽しいのではなかったか。

 そんなことを、平山に問われているようだった。
 ほんとうは、詩を書いていれば、満ちるはずなのだ。
 ほんとうは、こんなエッセイだって書く必要がない。
 すこしずつ、PERFECTから遠のいていく。では、やめろと言われても、いまはできそうにない。だが、すくなくとも、外聞を気にするのはやめよう。やりたいことをやって、ただ、満ち足りていよう。

 映画館を出ると、まだ、映画が続いているかのようだった。いつもの風景が、映画のなかにあったから、映画館を出ても、いつもの風景が映画のように見えてくる。ただ、横断歩道の信号を待つ人々、カフェで仕事をしたり、話している人々、そういうものが、とても、いとおしく見えてならない。

 平山さんが生きている世界に、ぼくたちは、生きられるのだ。

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