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#34 人を苦しめようと思って、詩を書いている。 -野々原蝶子さんとの対話-

昨夜は詩人の野々原蝶子さんとお話をした。

野々原さんは昨年、詩集『永遠という名のくじら』(私家版)を出され、詩の個展なども手がける、様々な活動をされている詩人だ。

ぼくが野々原さんのことを知ったのは、昨年の秋の文学フリマ東京で、ぼくら「26時」のブースに来てくださったときだった。きれいな女性の方で、名の通り「蝶」のネックレスをしていたのを覚えている。

そのときに「野々原蝶子です」と名乗ってくださり、ぼくは名前だけは知っていたので「ああ!」と思ったが、その時はどんな方なのかわからなかったので、カレーを食べに行っていた同人にあとで「野々原さんが来てくれたよ」と行ったら「まじか!」と驚いていた。昨日聴いたところでは野々原さんはぼくが「コンノダイチ」だと思っていたようだ笑

そのあたりから、Twitterもフォローして、詩の個展の情報などをツイートされているのを見て、ぼくもすごく「詩の展示」ということに興味があったので、ずっと気になっていた。それで、最近になって野々原さんの詩集「永遠という名のくじら」を通販で買って、読んでみると文学フリマのときに来てくださった野々原さんを追いかけて行ってそのときに詩集を買わなかったことを後悔した。

そういうわけで、昨夜はそのような出会いの話から、まずは詩の個展について話をうかがった。お話では、「汽水空港」という本屋さんのイベントスペースを借りて展示を行ったということだった。調べてみると「汽水空港」というお店はこの界隈では有名なスポットらしい。

というか鳥取!「文学フリマ東京」でお会いできたことが奇跡。そして、このイベントスペースが、なんと一日500円で借りることができたというのがまた驚きだ。ぼくも展示をやってみたくて「デザフェスギャラリー」などを調べてみたら普通に数日間で何万円もしたので諦めていた。

そうして、「永遠という名のくじら」がテーマだったということで、壁にマスキングテープで「くじら」を型取り、その白波として、詩を壁に貼り付けていったというのが大筋のようだった。

野々原さんのコンセプトとして、詩が読まれないのであれば「詩の方から行けばいい!」との考えから、展示に至ったようだが、これは確かにそうだ。「詩集」などの本におさめられた詩は、その場では読んでもらえない。たとえ、詩集を買っていただいても、「あとでゆっくり読ませていただきますね」とお土産のように持って帰っていただき、結局それは開かれずに終わったりすることはしばしばだ。

しかし、こうした展示になってしまえば、目の前で人は詩を読むしかない。そうして、そこに作者がいれば、自然と詩の話になる。お土産で持って帰ってしまった詩集の感想は、ほとんど永久にやってこないが、展示することで詩が、インタラクティヴなものになる。これは一つの発見であると思う。

また、野々原さんは、詩でないところに詩を置こうとする人でもある。この展示もまさにそうだが、少し前にGoogleの店舗情報のコメント欄に詩を書こうとしたり、詩のポスティングをしようとしたりするなど、かなりの「テロリスト」だ。

実際はGoogleのシステムに阻まれたり、ポスティングは迷惑だということで「ポストに詩を届けます」という商品を作ったりしている。これも、「詩の方から行く」という思想に基づくことだが、さらに野々原さんはバンクシーのように「詩はストリートとの相性がいい」と仰っていて、すごく共感した。ぼくももっと街に詩が溢れるべきだと思っている。

野々原さんはとても無邪気に詩の可能性を広げていく人で、いつか一緒に企画を考えてみたいと思った。次はいったいどんな「ポエムテロ」を考えつくのか今から楽しみだ。

さて、実際の詩の方はどうかと言えば、野々原さんの詩は「宇宙や概念レベルに大きいものを、手のひらにポンと置いて見せてくれる」、そういう詩だ。ぼくはとても好きだった。

「永遠という名のくじら」という詩集は2018年から2019年くらいまでの詩がおさめられているということだったが、全体の通低音として「永遠」「愛」「孤独」「宇宙」「優しさ」といったモチーフがある。それらはよく詩で使われるモチーフであるが、大きすぎて扱いを間違えるとただでっかいこと言っている人になるが、野々原さんの詩はそうではない。

 君の爆発

この大空のように
どこまでも深く 広くなった
君の優しさが ある日
しゃぼん玉のように
ぱちんと弾けた
この宇宙ができた 最初の爆発を
誰も目にしていないように
君の爆発も
みんな 知らない

「宇宙」的な広がりを持つビッグバンと「君の爆発」が並ぶ。到底比較にならない規模の現象なのだが、それが全く自然に結びついて、ストンとぼくたちの手のひらに落ちてくる。

他の詩でも「生きるとは/深爪みたいだ」(「たましいなんか いらないくにへ」)、「孤独の形が/人間の形をしていたらどうしよう」(「孤独の形」)といった、比喩が皮膚感覚としてよく肌になじむ。もちろん、引っ掻き傷を残しながら。

そういうマクロコスモス、ミクロコスモスをうまく接続する詩人だと思う。その話をすると、また野々原さんはこう仰った。宇宙の本などを読むことがあって、「私って宇宙人なんだ!!」と思うことがしばしばあると。「宇宙」は何も大きな銀河や星々ばかりでなく、その一構成要素として人間があり、私がいる、目の前のものも全て宇宙だと考えるとたしかにおもしろい。そういう気づきに、野々原さんの詩はつき動かされ、詩で哲学しているのだと思う。

見た目の印象や、日頃の印象などとは裏腹に、野々原さんの発する言葉は過激でおもしろかった。ネットで話したり出会ったりする人を見て「今って平安時代だよね」と言ってみたり、「人を苦しめようと思って詩を書いている」「苦しい気持ちにさせたい」「詩でぶっ●したい」などなど、驚くような発言がときおり飛び出す。それらはとてもキャッチーでユニークだ。

そういう言葉遣いが詩の中にも息づきつつ、詩集の「あとがき」や個展の「まえがき」に人柄として現れていると思う。作品だけでなく「詩人」としても魅力的な人だと思う。ぜひ、みなさんにも詩集『永遠という名のくじら』を手にとって、「あとがき」まで読んでいただきたい。そうして、見えない引っ掻き傷に苦しもう。

8月中くらいには新刊「光る地獄で呼吸する」(仮題)が出るようなので今から楽しみだ。

野々原さんの既刊は以下から買える。あと、テキレポEXに参加中のようなのでそちらもチェック。

野々原蝶子さん、楽しい時間をありがとうございました!
ぜひ、いつか一緒にポエムテロを!

マガジン『部屋のなかの部屋』
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