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おもちはきな粉と砂糖でしょ!

昔の話。
私がハイパーだめだめで、ていうか保護室に2ヶ月隔離されたのが明けてすぐ、退院したてでなにもかもままならない頃、ハイパーつまらない人間と一緒にいた。相手のことはハイパーつまらないと思っていたし今でも思うけれど、当時の私もそれなりにハイパー役に立たなかった。だからあまり何も言い返せなくて、毎日悔しくてたまらなかった。そんな生活に依存してしまって抜け出せない自分の気概みたいなものにも失望して、やっぱり悔しかった。
依存体質で自分のコントロールができなくて、こうして死んでゆくんだ……って大袈裟に。笑

どうしてこんなに何も知らない、教養も思いやりもない人が私よりも収入を得ているのか。きちんと社会にコミットして働いているからだっていうのはわかっていても、能力とはほとんど関係なしに、働いているというだけで守られた立場にいて、多くはなくても自分で生計を立てられるだけの収入があって、っていうのが悔しくて、それさえできない自分にまた絶望した。

家事はそれなりにできて以前より落ち着いた様子なのに働かない私に大して、その人は苛立っていた。少なくとも私にはそううつったし、私自身もそうだった。
やる気は出てきても身体がどうしても言うことをきかなくて、体力も5マイクロシーベルトくらいしかなくて、ずっと気忙しくて慌てていて、脳内で葛藤しているだけで毎日が終わっていった。
何もできない自分が、ほんとうに悔しかった。なんでもできるはずなのになにもできなくて、しんどかった。ひたすら申し訳なかった。

それでも、どうして経済的に優位に立たれているからといってこちらが申し訳なくならなければならないのか。
今なら少しはそう思える。満足に働けない私に私自身満足できてはいないけれど、働くよりも稼ぐよりもたいせつなことがある気がしているし、一般的な働き方ができなくてもなんとか生きていけるのも知っている。できないことを無理して追いかけて死ぬより自分のキャパシティを知ってそのなかで自分を守っていけたら、そのほうがいいよね。

でもでもでも、私は仕事に忙殺としている人たちにどこかで引け目を感じてしまうし、結局自分のことを追い詰めているのは自分自身なのでしょうか。

私だって私より経済的に弱い立場の人がいたらどんな態度をとってしまうかわからない。優しくはできても、エンパシーというか、アサーティブというか、対等に接せられるかと問われればかなり自信がない。でもその相手がすごく尊敬できるとか、賢いなあとか偉いなあとか、とにかくすごいなあって思える部分をもっていればまた私も変わる気もします。でもそのすごさはハイパーじゃないとダメな気もします。要するに私もハイパーすごくなればいいということでしょうか。

ハイパーすごい何かを身につけたいです。今のところ無鉄砲さとか物怖じしない精神とか、そういうものにしか自信がありません。

おわり

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