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vol19 「流れる」時間と「感じる」時間の違いとは?

時間の流れ方は一元的はじゃない。普段僕たちは過去、未来、現在と一方向(次元)的に捉えているが、本当は空間毎の時間、感じ方の時間などの変数があり、三次元的で、複雑で、掴みづらい存在だと思う。

たとえば感じ方の時間。僕の実家は毎年お坊さんがお経を唱えに来る家だった。小さい頃は胡坐でじっとするだけでもつらくて「長いな~退屈だな~」と思いながら過ごしていた。お坊さんのお経を読む声が「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・・」と小さくなっていくと「お!やっと終わりか?」と思うものの、また大きい声で「摩訶般若波羅蜜多ーーーー」と声を大にして読み始める。


終わらんのかい!


とツッコミながら、終わるのを待ってたぐらい、長く感じていた。でも、28歳になった今年はそうでもなかった。セミの音など聞きつつ、亡くなった祖父母を思い返す。すると、あっという間にお経の時間は終わる。

おそらく、お経を読んでる時間自体は大きく変わってない。ただ、僕の感じ方が変わった。

全員、似たような経験をしたことはあるだろう。行きしなの車の中は短い。しかし帰りはえらく長く感じるなど。人は同じ時間でも、感じ方が異なる。

また空間毎の時間も存在する。僕がお経を聞いている時間は約30分の時間だった。しかし、お盆休み中に働いている人もいるだろう。その人がWeb会議を30分した場合、僕の30分とWeb会議の30分は同じ30分。でも、本当に同じだろうか。僕の過ごした30分は1時間にも、10分にも感じる、そんな時間。しかしWeb会議の30分は30分だろう。次のスケジュールも加味した、厳格な30分。この2種類の30分は同じ存在なのか?ある地点Aで流れる30分と地点Bで流れる30分、必ずしも揃っていると言えるのか?

僕は同じ30分とはどうしても思えない。人間が集団を築くうえで、客観的でわかりやすい「時間」という概念を設定しただけで、元々「時間」という存在は人間と離れた存在ではないように思うから。時間は人間の内側に存在する。言ってしまえば、いま僕たちが認識している時間は無理くり作成した時間であって、本当の時間ではない。本当の時間はもっと複雑で、掴みづらい存在。

この違い、あえて掴みにいかないと分からない。本来、時間は人間の内側にしか流れておらず、外側に存在するものではない。そうなると重要になってくるのは一つだけ。

僕たちはいまこの瞬間、どういう時間を過ごしているのか?


だからこそ、時間の過ごし方は僕たち側にレバーがある。そう考えると、日々の過ごし方も少し変わってくるだろう。

そんな事を考えながら、お盆を過ごしてる。

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