【怪談】護符の誤用にご用心

あれは今から4年前の夏、つまりは2018年の夏に時間は遡る。
まだANYCOLOR㈱がいちから㈱だった時代の事である。
僕は大学生で、中退しかけの落伍者だった。
いや、確かもうその頃には怠慢な中退を始めていた頃だっただろうか。
どちらにしろ、僕のメンタルはストレスという大きく積もった塵になって、あとは何かのキッカケ……。
火花さえ散ってしまえば、粉塵爆発する事は確実だし、中退と言う爆風に飲み込まれたのは当然の結果であった。
なお、本筋にはあまり関係が無いので、僕のメンタルブレイクの経緯については省かせて頂こうと思う。慰めはいらないしね。

ともかく僕は大学へ行かず、鬱々と下宿先のワンルームで平日を虚ろな目で流し見て、虚無を過ごしていた。
あの頃は何もする気は起きなかったし、ただ冗長的に過ぎる時間を無感動で過ごしていた、それ自体が僕の存在意義であるかの様に。
しかしただしある一点、動物的衝動に酷似した行為を除いて。

さてと、ここからが大筋であり本編である。
僕に霊感はまるで無いが、オカルトが大好きである。その真理とかけ離れた非現実性、あり得たかもしれない可能性、クソっ垂れた現実すら否定してくれる矛盾性。
そこにはロマンがぎっしりと詰め込まれていたが、僕の理性は未だに心霊を否定し続けていた。
だって、あり得ないだろう?人の精神は脳が作り出すタダの電気信号だし、魂なんてものは未発展の科学と、それに漬け込んだ宗教が作り出した幻に過ぎないって事は、現代日本じゃ常識だ。
だからその魂が現世に残り、生きる人々を祟って、呪って、取り憑き続けるなんて事は、人の恐怖が作り出した虚像なのだと僕は理性で確信していた。
そうして僕は決意した。幽霊恐怖虚像理論に則り、霊の存在はどこから来たのかを証明するためだけに、この社会のレールから外れた人生を、賭けのチップに変え、ベットする事を。
積もりに積もった行き場のないフラストレーションは、遂に危険な領域へと突入する。

僕はまず下宿先から近い心霊スポットの情報をかき集めた。
時間だけは大量にあったから、かなり怪しげな心霊サイトを複数サーフィンして、実際にはただのウワサ(単なる経営難で廃墟になった人肉館等)のスポットは切り捨てて、霊障被害や殺人や自殺が起った場所のみをリストアップし、その地図を紙に印刷した。
印刷までしてしまったのだから、あとはそこに向かわなければならないという強迫観念に縛られるコト数日、普通にGoogleマップでピンを刺して向かえばいいのだという事に気が付いたのは廃墟に到着した後だった。
僕はあらかじめ持ってきた作業靴に履き替え、割れたガラスや突き出た鉄骨を躱し、妊婦の絵が描かれた事で有名な廃墟のラブホテルへと足を踏み入れた。
外観はしっかりとしている。所々壁紙や鏡が剥がれ砕けている程度で、壁と足元は鉄筋コンクリート造りなのか廃墟の割には、未だ丈夫なままだ。
だが、それにしてもカビ臭い、鼻腔の奥に張り付く不快感を無視して、暗闇の先にライトを点けると、埃が反射して霧の様なモヤが作り出される。
時刻は午後6時、うっすらと太陽が陰り始め、真夏のうだるような暑さを残しつつ、屋内は外界との拒絶を象徴するかのように闇のただ中にあった。

──この廃墟には二つの噂があった。「ホームレス集団リ〇チ焼死事件」と「レ〇プされた末に自殺した女性」の噂だ。
後者の噂であるレ〇プ事件の女性の霊が出るとされ、オカルトマニアの間でも囁かれる特にヤバいとされる部屋をとかく僕は探し求めた。
たしか、その後30分ほど建物内の構造に迷いながらも、裸の妊婦の膨らんだ腹に包丁らしきものが突き刺さった絵が描いてある部屋を見つけた筈だ。
その部屋も他の部屋と同様にカビ臭く蒸し暑く狭く、だけれど、どうしてなのか不思議と不快感だけは感じなかった記憶が残っている。
僕は絵の正面に座り込み、ライトを消した。

辺りは闇に包まれて、奥の窓からは弱々しく夕暮れの光が、少しばかり差し込んで来るのみである。
僕はただオレンジ色の部屋の中でぼうっと妊婦の絵を眺める。すぐそばに書いてある謎の怪文書を何度も読みながら、何か心霊体験でも起こらないかと冷たい興奮で脳髄はいっぱいだった。
座り込んで妊婦の絵を何十分か眺め続けていると、僕の脳はノスタルジックに似た謎の感情に支配され、なにか大きな両手に包まれて、抱擁され、ゆりかごの中に居るような安心感の中で心の奥の奥へ潜り、落ち続ける様な倒錯感に包まれていて、瞼が急激に重くなり、視覚を遮断する。

今では異常な行動だったと思う。だけれどその時の僕は、この”先”へ行けばそれまで生きて来た全ての罪が許された気がして、不眠症気味だった瞼は重力に逆らえずただ閉じる。
気が付くと眠ってしまっていたみたいだ。僕はまどろみの中で、特に夢を見ることも無く、再び瞼が上がる頃の時刻は午前1時50分頃を指していた。
頬に付いた砂埃を払い、すっかり暗くなった室内の中で、僕は未だに恐怖と言うモノの欠片すら感じなかった。
卵が先か鵜が先か。霊が恐怖を作り出すのか、恐怖が霊を作り出すのか、僕にとって大切なのはその順序だけだ。

僕はなんだか諦めに近い感情になりつつ、早く霊障体験でも起きないかなと四肢を投げ出してうつ伏せになる。
とにかく耳を澄ます。廃墟の外で風に揺れる木々の音と、時折通り過ぎる車の音、廃墟に入り込む隙間風の音、僕の心臓の鼓動の音。
女性の悲鳴の声や、女性の話声、赤子の泣き声なんてもってのほかで、まるで何も聞こえない。感じない。
……こんなものか。
結局、心霊スポットなどというモノは人がそこに恐怖を見出しただけで、ただの廃墟と変わらない陳腐な幻想だったのかもしれないと、僕は半信半疑になり始める。
その時は自分の霊感の無さにイライラしていたと思う。ひんやりとした床に這わせた耳は雨粒のコツンコツンとした音を捉えるばかりだ。
ため息をつきながら寝返りをすると、雨音が床に伏した耳以外からも聞こえることに気付く。
……この音は雨粒じゃない。何か規則的な……足音?
鼓動がドクン、と踊りだす。
遂に来たか……!僕のイライラは興奮に変換されていく。
さぁ、鬼が出るか蛇が出るか。いやホームレスか妊婦か。どっちだっていい、僕を祟り殺せ!原因不明の奇病にしろ!その場で踊り狂わせて殺したっていい!
寝そべった状態でとにかく僕は待った。全身の毛穴からジワジワと汗が噴き出して服が肌に張り付く。バクバクと心臓の鼓動がうるさい、どうも頭の中で響く。
足音は遂に僕の居る階層まで近づいて来た。なんだか女の話声の様な音が聞こえる。……いや、男もいる?
その足音は二重だった。……まさか、ホームレスと妊婦がタッグを組んで僕を呪いに来たか?
爆音で動く心臓を胸に、僕は汗だくの中で口元を醜く歪ませる。
……その時はもう、間もなく。

「うわぁああっっ!!!?」「キャァァァ――――!!!」
はぁ?何?
その声は僕のモノじゃない。近寄って来た何者かが発した悲鳴だった。
ドタドタと廊下へ転がりだす二人組を目で追って、廊下の先へ視線を送る。
何かチカチカと光が瞬く。ペンライトだろうか?
……ただの人間じゃん。
混乱が覚めると、僕は途端に馬鹿らしくなり、興奮が安堵に切り替わってしまって、なんだか物凄く可笑しくなって、一人部屋で馬鹿笑いしてしまった。
部屋の奥へ行き、壊れた窓辺から外を見物したら、ちょうどカップルと思わしき二人組が慌てて路肩に停めた軽自動車に乗り込んでいるところだった。
それを見ていたらなんだかまた、ものすごく可笑しくなって、涙を流しながら爆笑していた。
あぁ、なんて楽しいんだ。僕は猛スピードで発進する軽自動車に手を振りながら、冷めぬ笑いをけたたましく部屋に反響させて、何十秒か笑い続けていた。

僕は笑い疲れて、朽ちたベットにボフンと腰掛ける。辺りに埃と布の切れ端が舞う。その中に、何か文字が書かれた紙切れの様な物が視界の端に映り、僕の興味はソレに切り替わった。
スマホのライト機能を付けて、周囲をぐるりと照らすと、足元に御札のような古びた和紙があり、それを拾い上げる。
僕はニヤケ顔で、冷めやらぬ好奇のまま、その御札を戦利品の様に思い、大事に財布の中にねじ込んだ。

そこから先の記憶はとても曖昧で、間抜けな声を上げて一目散に逃げだす二人組の事を何度か思い出し、その度にクックックと下衆の笑いを上げながら妊婦の絵を、洗礼を受ける信徒の様に見上げながら、その夜をまるまる起きたまま過ごしたと思う。
それから……それから僕はどうしたんだっけか。
爛れる好奇心を胸いっぱいに詰め込んで、朝焼けの中で僕は岐路に付いた筈だ。
どこをどう行ってどう曲がってどう玄関を開いたのか記憶にない。ただ浮ついた面持ちで、なんだか自分が世界の中心なんだとその身で実感していた。
それまでの下宿先にため込んだ鬱々とした空気感は消え去り、過ぎ去る風と共に空気が澄みきって、吸い込んだ息がなんだか甘い味がして、僕は風呂も入らず、ベッドで泥の様に眠った。

そうしてまた僕は瞼を上げる。夢は見なかった。辺りが暗い、昼夜逆転だ。まぁ、僕にとって生活リズムの崩壊なぞ日常茶飯事だから、特に気にも留めない。
流れるように部屋の電気を点けると、部屋の真ん中におじさんが立っていた。
僕はその光景に違和感を覚えない。重い瞼を擦りながら浴室へ行きバスタブに湯を張り始める。半分くらい溜まったので、その身を投下して肩まで浸かり、頭を洗い、体を洗う。
昨日の事を思い出しながら、笑う。何日経っても、あの出来事は傑作だ。
10分くらい浸かって、バスタブの栓を抜き、軽くシャワーを浴びて体を拭きながら、部屋へ戻る。
まだ、おじさんは立っている。なんだか当然の様に部屋の景色に溶け込んで居た。そして僕の脳もそれを認めている。

やっと頭に疑問符が浮かぶ。誰?このおじさん。
おじさんに対して恐怖とか、不信感とか、霊的なナニガシは感じない。でも、僕は一人暮らし。そもそも誰かが部屋に居るはずが無いのだ。
ジロジロとおじさんを見ていると、景色に溶けてぼやけていたおじさんの輪郭がハッキリとし始める。
着替えながら、僕はおじさんの顔を覗き込む。……うーん、知らない顔だ。
「あのー」とか「誰ですか?」とかおじさんに聞いてみる。反応は無い。
ふと、おじさんの見ている先に目を向ける。おじさんは一心不乱に僕の財布を凝視していた。
財布……中身?あぁ、あの持ち帰った御札か。と妙に納得して、おじさんに視線を戻す。
これが幽霊って奴なのか?でも、足はしっかり付いてるし、白装束でもない。なんだか年相応の恰好と言うか、これは人間です。と言われても違和感は無いぐらいにハッキリ見えている。
……いや、違和感はあった。と言うか、見つけた。
両の手の平に、あるべきものが増えている。それは指だ。左手には7本。右手には6本。
指が7本の方の手は、中指が一本多くて、親指が左右対称になる様に、小指側にもう一本生えている。6本の方は、さっきと同じように、左右対称に親指が一本多い。
これは後に知った事なのだが、普通の人間でも多指症と言って、元から指が何本か多く生えて生まれる事があるのだが、当時の僕はつゆ知らず、幽霊が幽霊たる決定的な証拠を掴んだ!と興奮していた。
僕は凄い!凄い!と連呼しながらスマホのカメラを向けると、おじさんは消えていた。映すのはただの汚い部屋。
え?と思いスマホから視線を外すと、まだおじさんはそこに居た。
どうやら、カメラには写らないタイプの幽霊らしい。
なんだよ、と悪態をついて、スマホを投げる。
僕は少し思考を転換させて、おじさんの背に手を伸ばそうと考えた。
幽霊って、触れないのが定石だけれど、実際はどうなんだろうと、最早リスクなんて度外視で好奇心の向くままに、躊躇しながらも指先をズッっと伸ばす。

おじさんの産毛立った首筋に指の先が触れ、瞬間──。
僕の脳神経はショートした。
後頭部の中心で快感を叫ぶ。芯の部分が急激に沸騰し、その周囲へ連鎖的に快感の液体がジュワジュワと流れる。
脳に新たな知覚の扉が開いた時、僕は僕は僕は僕は……自意識が暴走する。気持ちいい。口がパクパクと半開きのままで眼球は頂点を向き、立ち眩みの様な感覚に呑まれて、僕と世界の境界線は溶け、流れ、固着し、刺さり、逃げ、邂逅し、また世界は心へと変貌し、気持ちがいい。
全身の毛穴から射〇するなんてメじゃない。きっとコ〇インやマ〇ファナよりもっと気持ちがいい。全身の血液が快感物質に置き換わり、酔う。
そうして遂に僕の交感神経の防波堤は決壊し、膝が笑い、僕は失禁すると、重力が無くなった。
綺麗だ。とても正しさに満ちている。僕は僕は僕は僕は。これは愛だ。満ちているか。言葉が染みて、僕は宇宙へ、下水へ、イデアへ、末端へ。
溶ける。飽和する。同化する。ピクピクと体を痙攣させながら、僕は世界を妊娠させた。
ただ生きて、嬉しかった。

自我を崩壊させるほどの快感が過ぎ去り、やっとマトモな思考ができるようになった頃、顔を上げるとおじさんは忽然と消失していた。
だが、濡れたパンツと顔面に残る大きなアオ痣の痛みが、アレはただの妄想では無かったことを物語っている。
すごく、心は澄み切っていた。仏教で言うところの悟りなのだろう。
……ここから先はうまく思い出せない。断片的に、他人の記憶を覗き見ているような錯覚が支配して、地続きの僕はそこに居なかった。
ただ興奮の中で、純白の布を吐しゃ物で汚し犯し蹂躙する。彼の記憶を、ここからは話そうと思う。

彼は御札、もとい護符を作り始めた。筆で書き崩された文字をなんとか解読し、ネットで調べるとその違いを知った。
お札は神社が神の力を借りた物で、ポピュラーな文化としてオカルトを超え文化として生き続けている。使用目的は単に運気上昇とか、無病息災なんて現実的なモノだ。
護符はお寺や密教をルーツとし、地方で変化していく土着の宗教で使われている。使用目的は呪殺や除霊、退魔や降霊……なんて非現実的なモノだ。
彼はきっとそんなことはどうでも良かったんだと思う。もう一度、あの世界と同化する快感が得られれば、御札か護符かなんて些細な違いだった。

まっさらな三椏の和紙を切り取り、とにかく筆を使って模写する。
何十枚か作ったところで、元の護符の雰囲気は出せない事に気付く。
紙が新し過ぎるからだ、と。
彼は竹製の割りばしを掴み、自分の鼻の穴に勢いよく突っ込んで粘膜を裂傷させると、溢れ出る鮮血を目下の器に満たして和紙を投下する。
数分もすると、器に満たした鮮血の上澄みはプルプルと固形になり始める。
彼は鼻腔の奥にも固まる血を吸いだし、飲み込み、口の中に真っ赤な糸を引く。
血だまりの和紙を慎重に取り出し、洗濯ばさみに吊るす。
何日か経つと、和紙はパリパリに硬くなって朱色と茶色の不快なグラデーションが現れる。
それを一枚掴んで、心霊スポットに貼り付けに行く。
その繰り返し。何度も、何度も、何度も。

護符が足りなくなれば、指先を切りつけて、血を絞り出す。もう片方の手で、ケチャップを絞り出すように。
量が足りない。血が足りない。手首を縦に切る。十分な量が出た。
そうしてまた乾かして、彼は漏れた血を啜る。
ダクトテープでぐるぐる巻きになった左手を振って、霊園へ、廃神社へ、トンネルへ。
とにかく、貼る。
数多訪れた心霊スポット、おじさんに似たモノは無し。
アレを境に見る事の無くなった影を追い続ける。

そして秋になった。貼ったうちの何枚かの護符は、心霊スポットから消えていた。
喜ばしいことか、もしくは災いへの報せか。
彼は少なくなった護符を様々な所から回収し、舐めて確かめる。少し酸っぱく痺れる様な血の味がする何枚かを懐に収めて、また貼りに行く。
楽しい、楽しい。生きてる、生きてる。

冬になり、両親からの仕送りは打ち切られた。LINEも電話も無視していたし、親が家に来たって、彼は居ない事が殆どだったから。
きっと実家に大学の留年通知でも届いて、彼へ釈明でも聞こうとしたんだろう。
両親の目には、彼が逃げ回っている様に映っていただろう。
金の無心のついでに連絡をさせる為に仕送りを打ち止めたなんて作戦は容易に分かる。
寒空の下、湖へ、廃ビルへ、森の奥へ。親の事は気にも留めずに、ただ護符を辺りに貼り散らし、あの瞬間を夢想する。
鈍化した脳は現実の輪郭は見えない。いや、感じない。気持ちがいい。

春になった。麗らかな桜の匂いが気持ちいい。痛んだ鶏肉に錆をまき散らし、沸いた蛆が踊り狂い、ハニカム構造に身を隠して、曇天の産卵が気持ちいい。
待ちに待った式典へ清廉たる和音を競い、また凍える。されど罪人はウォズニアックへ臨界し、摘み、煌めく。
生肉のインテレクチュアルに迷惑は護符。やはり気持ちがいい。
相手が『胡椒』と胎児に頂けているかどうか、そんな三週間でラキソベロンを見直してみては相違ないでしょうか?
何日も物を食わないと、在りし日に見た語感で歯肉は咲く。模倣し、陶酔し、護符、貼り、剥がし、咀嚼し、意味が。

夏だ。8月27日、左腕の傷跡が痒い。グチャグチャと掻くと、膿んだ汁が溢れる。肩の先から小枝が生えている。奇妙で面白い。
今日は記念日、一周年、アニバーサリー。
セリーヌへ向かう。この頃の現実は溶けている。目に映る物は存在が安定しない、脳のCicadoideaが羽化したのか、ギチギチ五月蠅い。
僕は食器で、虫かごで、牢屋で、マガジンで、ケースだ。仕舞い、閉じ、保存し、入れ、差し込み、受容し、送り、加える。
楽園へ到着すると、懐かしさと、視神経が増えて、先端が砕ける感覚がした。
帝王切開された母の部屋に至り、母胎の内側に潜る。
オリジナルの護符と、コピーした護符。使い物にならない劣化品は自宅。
彼は服を脱ぎ捨てて、とかく体に貼り散らす。糊は剥がれる。糸は千切れる。ホチキスで留める。熟れた肉の感覚がした。
ふらふらと部屋を徘徊し、余った護符はバラ撒いた。
細工は流々、仕上げを御覧じろ。ただ待つのみ。
彼は確信している。新たなる次元は迎え入れる。

ミシミシと家鳴り、部屋の四隅から噴き出す黒い靄が彼の目の前に集まり始める。影の様な、霧の様な。
肌がチリチリと痛み出す。未だに人本来の危険信号が生きている事を彼は無視し、集まる霧の存在を固定しようと瞳孔を開き凝視する。
吐き気が込み上げてきて、寸での所でそれを抑えると、喉を駆けあがった胃液、その上澄みでできた泡が口元から漏れ出す。
黒い気体は寄り添うように集まり合って、人の姿に変化し始める。背丈は彼と同じくらいに、胴体が起こり、両手が出来上がり、両足が出来上がり、頭部が出来上がる。
彼は恐怖と興奮で震える膝を手で抑え、瞬きを拒否した瞳から涙を垂れ流す。呼吸がしにくい、焼けるように痛む喉にタンが絡む。
ブルブルと笑うように震えるその黒い人体の顔の先に、よく見知った表情を垣間見た。
視床下部の辺りがカッと熱くなって、彼は理解してしまった、それが何者なのか。
理性を超えた瞳で、あり得ざる存在を見た。

彼だ。彼がそこにいた。自身と全く同一の中身が目の前に居た。姿見の前に立つ様に。
そして目的もまた、彼と同様だった。
その身に触れて、中身を入れ替える事、存在そのものを奪う事。
恐怖に支配され、その場から逃げることができない。
黒いヘドロのグチグチとした臭いが不快物質を生成する。
嗚咽を漏らしながら、その場にしゃがみ込み、とにかく頭を両手で抑えながら、俺は俺で俺から俺に俺、俺俺俺俺俺……。
迫ってくる黒い影を目で追って、自身の存在を、全身から漏れ出る体液にまみれながら、確かめていた。

彼の記憶はここまで、この先で何が起こったのかは分からない。
録画に失敗したビデオテープの様に暗転、記憶はそこで停止している。

僕は目を覚ますと、知らない天井だった。妙に綺麗で、四方の壁はクッション材でできている。
お薬の時間です。そう扉の向こうで声がして、差し出される錠剤を受け取りながら、僕は、今日は何日ですか?と聞いた。
薬を飲みながら答えを待つ、声は怪訝そうに、8月27日です。とそっけなく答えると、僕に口の中を見せるように言い、確認するとどこかへ行ってしまった。
ふと、左手首を見ると、傷口はそもそも存在していないかの如く、まっさらで綺麗なままだった。

それから二か月ほどかけて、僕は精神病棟から退院した。
統合失調症と診断された僕は、なんと1年間もの間、心神喪失状態で入院していた。まるで記憶にないけれど。
入院のキッカケになったのは、半裸で入店したスーパーで総菜を食い散らしながら奇声を発していたから、通報→逮捕→入院したらしい。なんだそりゃ。
担当医から 「カンカイです。今までよく頑張りましたね……」と嬉しそうに言われた時、あぁ僕はイカレていたんだなと実感した。
親からは、知らない内に勘当されていた。まぁ、入院費と治療費は出してくれたみたいだし、そこだけでも感謝すべきだろう。
退院当日、無表情の父に大学は退学した事と、下宿の家具や気味の悪い紙切れはすべて処分した事を伝えられると、何十万か入った封筒にどこかの家の鍵を渡された。
家賃は半年分振り込んである、住所は封筒の中に。そう言うと父は表に停めていたセダンに乗り込み、足早に去っていった。手切れ金という訳か、と無感動に思った。

それから二年経った今、僕は必死に毎日を生きている。
当然、精神科に通院歴のある人間などマトモな企業が雇ってくれる筈も無く、ブラックな肉体労働でわずかな金銭を啜る日々だ。
どうしてあんな事をしてしまったのか、と思う事はそれほど少なくない。まったく4年前のアレは、人間の生活ではないとハッキリ言える。
でも、どうしてなのか、酷く懐かしいような、心の奥ではまたあのおじさんの様な霊を見ることを求めているような、そんな気がした。
きっと、次にアレを見てしまったら、僕は迷わず触れてしまうだろう。

顔を上げ、日暮らしの鳴く山を遠く仰ぎ見て、優しく撫ぜる風に、あの頃は消えていった。
……もし、景色に溶けた何者かが見えた時、絶対に触ってはいけません。
それだけが僕に言える全てです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?