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2016年夏、ロシアの思い出

人には忘れられない思い出があると思う。社会人5年目の私にとって、忘れられない思い出があるとしたら、それは7年前にロシアで過ごした夏のことのかもしれない。それは今でも時折夢に現れて私を惑わす。夏から秋のロシアは、空気は澄んでいて、美しい街並みの街を歩いた後に乗り込んだ寝台列車から暮れゆく空をずっと眺めていた。若くて、もう取り戻せないであろう夏の思い出だ。


ロシアへの短期留学

2016年の春、都内の大学の二年生だった私は第二外国語のロシア語の講義の中で、夏休みに一か月間の短期留学がある話を講師から聞いた。何でも成績による選考があるとのことだったが、一か月間、ロシア連邦政府の予算で授業を受けることができ、寮にも格安で住めるとのことだった。「留学」してみたかったものの、予算的にも、借りている賃貸の家賃を考えても、地方から私大に上京していた私には、半期や一年間の留学は難しいため、非常に魅力的な話だった。考える間もなく、申し込みをした記憶がある。
私たちのクラスからは他に2人が申し込みをしていて、選考の結果、全員通過していた。私はそこまでロシア語が得意ではなかったのだが、運よく通過した。
※費用負担は家賃一か月850P(1600円程度)と航空券と生活費のみだった。

六本木にあるロシア大使館での説明会などを経て、実際にロシアに渡航したのは、8月の下旬ごろのことだった。ほぼ全員、提携の旅行社の手配で飛んだのだが、私はヨーロッパに行ってみたかったので、ドイツを観光してから、モスクワに入った。

モスクワでの生活

プーシキン大学(Государственный институт русского языка имени А. С. Пушкина)はモスクワの郊外にある外国語学部のある単科大学だ。私たちは、ここで4週間ほどの語学研修を受けた。最初にロシア語でのテストを受け、レベル別に分かれたクラスで講義を受けたのだ。大学での授業・講義に関しては、ここでは詳細を記さない。記すことができないというほうが正確かもしれないが。

プーシキン大学

大学からモスクワ中心部まではメトロ駅まで徒歩20分でそこから20分程度であった。少々アクセスには難があったが、到着してからはモスクワの街を見て回った。同じ大学や仲良くなった数人でグループを組んで、赤の広場を見たり、有名な観光地を巡った。ロシアは、日本とは全く文化が違い、何をするのも新鮮だった。
あまりロシア語が話せなかったため、一学年上のロシア語が堪能な先輩に言葉を教えてもらいながら、地下鉄の窓口で切符を買ったり、スーパーのレジで会計をしたり、キオスク(売店)で注文をしたり、レストランでの注文したりした。文化の違う国では言い回しや仕草を覚えないと相手にしてくれないので、これは非常にありがたかった。東側世界の名残は十分にあって、日本とは全くの別世界だった。

赤の広場
グム百貨店
モスクワ・クレムリン

モスクワはソビエト連邦の中心

一番興味深かったのは旧ソビエトの国々に出会ったことだ。ウズベキスタン、カザフスタン、グルジア、アルメニア…旧ソ連には様々な国があって、旧宗主国首都のモスクワには今でも構成国からの移民が多く暮らしている。
そのため、街にはアジア系やカフカス系の人が多くいたり、レストランや商店も並んでいる。日本では身近に聞かない国のものに触れられるのが新鮮だった。(これは日本に歴史的経緯から、朝鮮・韓国、台湾、中国料理屋が多いのと似ている)
中でも、私が一番惹かれた国はウズベキスタンだった。ウズベク語専攻のクラスメイトに見せてもらった本国の写真には、中世のような街並み(ヒヴァやブハラ)が残っていて、ウズベク料理屋に連れられてみると、黒い四角形の紙の帽子を被ったおじさんが熱々の炊き込みご飯(プロフ)や煮込うどん(ラグマン)やシャシリーク(羊の串焼き)、ナンを運び、緑茶を急須に入れて用意してくれる。どの料理も美味しかったためか、楽園のように思えて、我々はよくウズベク料理屋に行っていた。(大学の隣にはサマルカンドというお店があった)

ウズベキスタン料理

ロシア旅がしたい

もちろんショッピングモールで自炊道具を買ってきて、自炊をして、夜までお酒を飲んでいたりもした。ウォッカも飲んだし、スーパーへ行けば自家製のビールがあったので、2Lのペットボトルに入れてもらい、飲んでいた。
到着から数日経った我々の議題に上ってきたのが、ビザが簡単に取れた今、(通常のロシアビザは招聘状発行の上、行ける都市が限られていた。これには空バウチャーという抜け道もあるのだが、公式にはそうなっている)、このロシア全土有効のビザでどこへ行くかということだった。
私は択捉島へ行きたかったが、ユジノサハリンスク(豊原)まで10時間かかるうえ、その先は国境への許可が必要なので諦めた。一人の友人は、チェチェン共和国や実効支配化のクリミアへ行きたいと言っていたが、ロシア初心者にはハードルが高かった。
結局、地球の歩き方を買ってきていた友人(4人のうち一人しか持っていなかった気がする)は、英雄都市(第二次大戦下の都市の功績を称える称号)巡りをしたいと言い、激戦地のヴォルゴグラードへ行くことが決まった。そして、ウズベク語専攻の友人の希望でイスラム教国のタタールスタン共和国へ行くことも決めた。
数日後に始まる一つ目の旅から、ロシア旅にドはまりしてしまい、この先ずっとロシアを旅することになる。

ペットボトルにビールを詰めて売っていた

ロシア旅行

第一弾:タタールスタン共和国カザン(3泊2日)

モスクワ・カザン駅23時8分発の寝台列車、東へ800キロ、11時間の旅である。寝台列車は4人で行くので4人個室の二等車を予約した。4人個室であれば鍵もかけられるし、安全である。当時、インターネット予約は出来なくて、窓口に30分くらい並んで購入した。中央アジア系のダフ屋が話しかけてくるが、彼らは機械で代わりに購入し手数料をふんだくるので相手にしてはならない。カザンには翌朝10時ごろに到着した。

カザンはタタールスタン共和国の首都である。ロシアはロシア連邦の名前の通り連邦制の国で、いくつかの共和国や州などから成り立っている。タタールスタン共和国はその中でも、自治権の強い共和国である。
カザンはきれいな街だった。ロシア三番目の都市とあって街並みは整備されていたし、何より、モスクと正教会が共存していたり、大統領宮殿がクレムリンに配置されていたりと特色のある街だった。
共和国の博物館を見た後に、市場のチャイハナでウズベク料理を食べ、夕方には目抜き通りのバウマン通りを冷やかしたり、レストランでタタールスタン料理を食べた。私にとって、すべてが新鮮で、目の回る体験だった。ロシア語を携えるだけで、こんなにも世界が広がるなんて思ってもみなかった。私の初めてのイスラム教国への渡航であった。
翌日も観光をして、モスクワ行きの夜行列車に乗った。

カザンクレムリン
東京まで6841km
カザンの街並み
モスク
タタールスタン料理
カザンバグザール(駅)

第二弾:ヴォルゴグラード(4泊5日)

第二次大戦の激戦地ヴォルゴグラード(スターリングラード)へは、モスクワから南へ1000キロ。19時間の旅であった。
モスクワを出発したのは13時頃、昼間の寝台車は優雅なもので、冷房の効いた個室に、スーパーで仕入れておいた食べ物と酒を並べておく。備え付けのお弁当を食べて、おなかが膨れたら寝ればよいのだ。寝台でまどろんでいると、次第に日は暮れていく。電波のない平原をひたすら走っていると飽きてくることは否めないが、変わりゆく景色は大陸的でよかった。
ヴォルゴグラードに到着したのは、朝10時過ぎだった。寝台列車はこの時間に到着するのがちょうどよい。7時過ぎに目が覚めて、朝ご飯を食べて、もう一度寝ていてもお釣りがくる。

寝台列車の個室
食料

この街はヴォルガ川の河畔にある街だ。我々はショッピングモールでスシを食べた後、母なる祖国像という、巨像を見にいった。いかにもソ連的なモニュメントで、内部は献花台になっている。永遠の火を衛兵たちが守っていて、毎時行われる衛兵交代は美しかった。地球の歩き方に献花をしてはどうだろうかと書いてあったので我々も献花をしたのだが、明らかにドン引きされていた気がするし、何より敵国だったロシアに花を手向けたことは今でも少し後悔している。(ウクライナ侵攻後にもかなり後悔をした)
ヴォルガ河のクルーズ船に乗った。空はとっても澄んでいて、ロシアの国旗がきれいにはためいていた。素敵な国に来たものだと思った。
翌日はヴォルゴグラードの日だった。街では祭りが行われていて、出店が出ていたり、ソ連の戦車が並んでいたり、ソ連兵の衣装を着た退役軍人がモルスやクヴァスを振舞っていた。ベリーダンスを踊っているイベントを見ていると、物珍しいのか、あなたたちも踊りなさいと声をかけられる。見様見まねで踊っていたが最後はわからなくなったので、皆でドジョウ掬いを踊ったらかなり受けていた。この街では二泊したのだが、二日とも夜ご飯は中華料理を食べた。アジアの味が恋しかったのかもしれない。

母なる祖国像
衛兵交代
パブロフの家
ロシアの国旗がはためいている
ヴォルガ河クルーズ
ソ連兵


ヴォルゴグラードからの帰りも寝台列車に乗った。この帰りの、夕日に包まれた車窓は印象的だった。日は暮れても楽しい時間はいつまでも続いていて、ずっと旅が続けばよいのになと思った。

西陽が車窓を照らしている
夜になる
寝台列車、機関車が牽引する

第三弾:ノヴゴロド・サンクトペテルブルク(3泊3日)

モスクワに戻った二日後、我々は針路を北に取った。寝台列車に乗り、向かうのはノヴゴロドであった。ノヴゴロドは新しい町の意で、かつてノヴゴロド公国の首都であった。クレムリンにはロシア最古の建物ソフィア聖堂が残っている世界遺産の街である。
到着したのは朝の6時だった。早朝に到着し寝不足だったので、駅近くのマクドナルドで時間を潰してから観光に移る。当時はマクドナルドもスターバックスもロシアにはあった。
ノヴゴロドは小さな町だったが、なにより教会が美しかった。ヴォルホフ川の対岸から見るクレムリンも良かった。
昼には少し背伸びをしてレストランでビーフストロガノフを食べた。初めて食べるストロガノフはとても美味しくて、これまでウズベク料理を食べまくっていたことを悔いた。
夕方、郊外列車に乗り込み、サンクトペテルブルクへ三時間。

クレムリン
ビーフストロガノフ

サンクトペテルブルクは美しい街だった。一言で表現するとしても、二言であったとしても美しいと表現するしかなかった。目抜き通りのネフスキー通りは洗練されていて、カザン大聖堂や血の救世主教会なども帝国の威信を感じた。
もちろん、エルミタージュ美術館も訪れた。当時あまり美術に興味がなかったので、ダヴィンチのリッタの聖母くらいしか見なかったが、宮殿建築の美しさには心を打たれた。
サンクトペテルブルクの美しさは、このロシア旅で一番心に残った。(半年後に再訪することになる)
食事はスタローバヤという食堂で安く済ませたが、最終日の昼だけは、レストランでグルジア料理(ジョージア料理)を食べた。

血の救世主教会
レトロな町を走るトラム
エルミタージュ美術館

サンクトペテルブルクには二日滞在した。正直、観光時間は全く足りていなかったが、これには訳があった。オーロラが見たくなったのである。サンクトペテルブルクから北上すれば北極圏に入る事ができる。4人のうち一人はモスクワに寝台列車で帰っていったが、残る三人でさらに北に向かうことにした。

第四弾:ムールマンスク(3泊5日)

サンクトペテルブルクから寝台列車に再び乗り込んだ。目的地は北極圏、北緯68度にあるムールマンスク。かつての閉鎖都市であるが現在では訪れることができる。サンクトペテルブルクからは寝台列車で26時間。個室寝台も満席だったので、狭い三等寝台で26時間だった。

秋空の途中駅
車窓は秋めいていた
三等寝台
カレリア地方


車窓は秋の車窓で、北に向かうほど寒くなっていく。途中、刑事が乗り込んできて、職質が始まる。旧閉鎖都市なので、かつての名残なのだろう。
そこでパスポートを見せたので、向かいのおばあさんは「あなたは中国人じゃなかったので安心だ」という。ロシアでは日本人とわかると態度が変わる。我々は中国や中央アジアへの侮蔑の目線と日本への目線の両方を感じてしまうため複雑な感情が残る。
ムールマンスクに到着したのは夜22時過ぎだった。
今回の目的は北極圏でオーロラを見ることである。現地に住まわれている日本人の方にお願いをしてツアーを手配していただいた。
案の定、駅のホームには刑事が待ち構えているが、待ち合わせていたツアーの方と合流できたので職質を回避した。

滞在は3日ほどあったので、一番見えそうな日に、ツアーをお願いしていたが、到着日が良いとのことで、車で郊外に向かう。
何もない草原で、ひたすら待つ。寒いので紅茶を飲ませてくれる。それだけじゃ暖まらないでしょとウォッカが加わるのもロシアらしい。紅茶のウォッカ割を飲みながら待つこと一時間。ほのかに光のようなものが現れた。
これがオーロラであった。肉眼ではあまり感じないが長時間露光の写真ではくっきりと見えた。30分ほど見えた。9月下旬で見えるのはラッキーらしい。初日に目的を果たしてしまったので、運がよかった。深夜に宿に入る。

オーロラ

ムールマンスクには観光資源はほとんど無い。世界初の原子力砕氷艦レーニン号や巨像のアリョーシャの像があるくらいだった。街の入り口には北緯68度と書かれているモニュメントがあったのでわざわざバスに乗って写真を撮りに行った。ただ、世界最北端のマクドナルドはムルマンスクにあった。最北端のマクドナルドで食事をしたり、レストランでトナカイ料理を食べたりした。モンベルのマウンテンパーカーしかなかった私に北極圏の街は寒かった。
最終日、郷土博物館を見ていると、高校生の女の子たちに話しかけられた。どうやら東洋人が気になったようで、一緒にバレンツ海を見にいく。女子高生とバレンツ海を見にいくデートをするなんて一生ないだろう。
夜、アエロフロート機でモスクワへ帰る。

レーニン号
世界最北のマクドナルド
トナカイステーキ
アリョーシャ像

第五弾:スーズダリ・ウラジーミル(日帰り)

モスクワでの暮らしもあと二日となった日に、行き残していて日帰りで行けそうだったスーズダリとウラジーミルへ向かう。
モスクワからは約2時間。スーズダリもウラジーミルも古い町で、町の中に教会や聖堂が溶け込んでいるようだった。黄金の秋と呼ばれる時期の田舎町はとても雰囲気が良かった。全くロシアの歴史に興味のなかった私が、この町に来たのも友人のおかげだった。夜の列車でモスクワへ帰る。

スーズダリ。田舎の風景だ
ウラジーミル
黄金の秋だ
ウスペンスキー聖堂

帰路

あまり勉強をしないまま、そしてモスクワを垣間見ただけの一か月が過ぎ去り、私はドモジェドヴォ空港からカタール航空で東京へ帰った。このひと月の間、私の座標はヨーロッパロシアにあって、旧ソビエトの国々が身近に感じられた。言葉を携えることで世界は広がる、その事実に気がついた私は大学を卒業するまで、ユーラシア大陸を歩き回ることになる。最初の鮮烈な印象は、今でも7年前の夏を美しい思い出のまま、私の中に残していて、故にいつまでも忘れることができないのだろう。

※ロシアによるウクライナ侵攻・力による一方的な現状変更は支持しません。

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