誰かの暮らしを感じること。
ふとんから出たくない。眠い。
目は覚めたものの、なかなか起き上がれない。
まだ真っ暗な中、身支度を整え、おにぎりを作り、朝ごはんの準備をする。
まだ暗くてカーテンも開けられない中、朝ごはん。
ただ時間を気にしながら、もくもくと準備をこなす。
凍った車のガラスを溶かす。
今日は次男のサッカーの大会2日目でした。
上も下もせいいっぱい重ね着して、ダウンコートとブーツ。
それでも、寒くてたまらなかった…。
次男は、ひとつ上の学年のチームに加わり、毎試合出してもらっています。
以前は遠慮がちだったけれど、最近では気迫でも負けないくらい強くなったと、他のお母さんたちからも口々に言われました。
今日は準決勝PKで負け、3位決定戦PKで勝つ、というかなりハラハラしどおしの試合でした。
こうして話すと、いいね、がんばってるね、と思いますよね、きっと。
でも。
理由はいろいろあって話せないのですが、次男のサッカーに関わるとき、私は常にさまざまな負の感情と向き合っています。
ただ親が関わって大変だ、というだけなら全然いいのですが。
子どものやりたいことをやらせるために、と言い訳じみたことを言っているけど。
まだ小学生、それをやらせると決めるのも親だし、結局は子どものため、と言っているようで自分のためでもある。
矛盾しているようですが、そうなのです。
毎回、子どもたちのがんばる姿に熱く込み上げるものがありつつも、家にもどったときの安堵と、どっとした疲れ。
身体の疲れを上回る、メンタルの疲労です。
でも最近、とことん憂鬱な気持ちを抱えたり、ひとりネガティブに溺れていくことを、客観的に見てブレーキをかけられることがあります。
それが、このnoteの存在だと気づきました。
朝、なんとかがんばって起きたとき、noteを開く。
そうすると、いつも私よりも早起きの方たちの投稿が上がっていて、なんだか勝手にその方々の充実した朝の時間を想像し、元気をもらう。
それと同時に、夜遅く投稿される方の記事を見てまた、なんとか一日無事終えられただろうことを勝手にお疲れさまです、と思って安堵する。
自分よりもずっと困難な状況に立ち向かっている方々の話を見て、自分の思いを省みる。
実際にはお会いしたこともないのに、ここではないどこかに、たくさんの方々の存在と暮らしと、日々の思いを感じることができる。
そのことに気付いて、なんだか自分の世界に広がりを感じ、自分の気持ちにも落ち着いて向かい合うことができるようになった気がします。
これは、星野道夫さんの『旅をする木』の中で出合った一節で、アラスカの自然と動物を思っての言葉なのですが。
そんなに遠く離れた「もうひとつの時間」でなくても、こうやって誰かの「もうひとつの時間」を感じるということが、自分だけのネガティブな世界に落ち込まない、私にとってそんな役割を果たしてくれている気がします。
なんだか今日は、思ったことをそのままつらつらと書いてしまいました。
読んでいただいてありがとうございました。
そしてnoteの皆さま、そんな日常をありがとうございます。
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