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”責任”という言葉の重さと必要性

ご覧いただきありがとうございます。
継続は力なりということで、3行日記も結構続けておりますが、
日々の雑感を書くことも、感じたことを書くことも
”表現”として常にやり続けることで、頭の中が整理できるような気がしております。ですので、今日もお付き合いいただき、本当に感謝です。


さて、今日は”責任感”についてのお話。

”責任”という言葉について、皆さんはどのような感覚を持ちますか?

これもタイミングや捉え方によっては、正にも負にもなり得る言葉だと思います。
責任という言葉につぶされてしまう人もいれば、
責任がなさ過ぎて、人から軽視されてしまうケースもちらほら。

ただし、この責任という概念も、自分自身で決めているものと、他人から決められているものに分かれているのが現実です。

つまり感覚値なので、その境界線の引き方は、人によって違うということ。

例えば、”教師の責任”ってどこまででしょう?
これ、結構多い議論なのですが、
家庭内におけるしつけの範囲内と、学校教育内で関与すべき範囲内って本当に境界線引きが難しいのです。

登下校時に何かあった場合、責任はどちらに問われるものでしょう?
通学路?
電車通学だった場合は?
学校の正門から一歩出たら、学校の責任範囲外?

まぁ極端な話ですが、結構こうした”責任論”はかなりデリケート。

だからと言って、何もかも”家庭の責任”とか、”学校の責任”とかの論議をしていると、その責任を取りたくないがために、積極性が失われてしまうことに繋がる。いわゆる、消極的な行動を意図的に行う。
怪我しないためにも行動をしない。

これでは発展しないですよね。

”責任”は重さもあるし、必要でもある。
さてどこに上手く境界線を引けばよいのでしょうか。

これは全てのことに通ずるものだと思います。
だからこそ、自分自身では”責任”を強く持ち、人には”責任”を負荷にならないようにする。こうしたあり方を続けていました。

これも一つ、境界線の引き方を考えなければいけない
難しい日本語ですね。


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