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失うことについての自問自答。

ぶっちゃけるとだな、
40前には死んでると思ってて、
「あ、生き延びてもうた」であるが、
血筋的なこと考えると、
60前には確実にこの世にいないと小さい頃から思っていた。
そういう意味ではもうカウントダウン率大なんだけどさ。

人の死に目にはよく遭ってるが、
そもそも自分に「死」が付きまとっているのは自覚している。
死にたい病だしな。

プロフやらなんやらにどの表現でもテーマ同じとしている。
「コミュニケーションの限界とその打破」
「対象喪失」
これってさ、ワシの脳内に小さい頃からあるだけのことで、
ある意味、ワシはそこから逃れずにいるだけでもある。
が、関係ないようでこの二つは関係している。

言語は記号でしかないという考えもあるけれど、
何かを失ったことに対して、
何をどう言っても、泣いて叫んでも伝わることはない。
他の事象についてもですけどね。
いや伝わるよ、100%ではなくても、数%は。
脳みそが、思考が違うから100%はないと思うだけです。
聞いたその人の中のどこかに引っかかるだけの話だから。
限りなく100%に近づくように足掻くかだ。
「理解」する努力するかだ。

これは作品での送り手と受け手の関係にも似ている話。

でもそれも別に100%わかってくれではないのだよね。
数%何か届くか、別方向だとしてもなんでもいいんだわ。

物語に終わりがあるように、
生きることにも終わりがあって、
身内のことを言えばもう数える歳月でそれはまた訪れるし、
自分自身もそうであり、
どっちが先か?的なところはリアルにあるんだけども、
ワシはそこでもきっと泣かないだろうと思う。

死に目では泣かないという意地がある。
意地というか、素直ではないというか、なんつうの?
ワシはやはりそれを肥やしにしようとする。
することが敬意だと思う。
愛とは思わん、ワシはそうやって育てられた。

大事なものを作らないわけではない。
大事なものを作らないのは弱さだと思う。
失っても構わないからと大事なものを作るのが強さだ。

ってのを高校生あたりのワシは言うていた。
なんかそんな小説だかを書いていた。
ある意味、名言だとか言われたが、よく知らん。

まぁワシは口述言語を信じていない。
今でも信じていない。
だから適当なことしか言わないこと多いけども、
結局まぁ「作品」以外で吐く気はないんだよね。
自分の一縷の望みでもあり、
誰かの一縷の望みであればいいと思うから。

オチ、わんこ会長と燃やして散骨してくれだ(笑)
形見分けで争奪戦起きそうなわんこ会長、
一緒に燃やせ、必須だ、誰にもやらん。

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