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3.11の津波で殉職した警察官に捧げた歌『守りたいもの』誕生秘話 ~「"真実の愛"とは何か」を教えてくれた福島~

「真実の愛」とはなんだろう。

誰もが一度は考えたことがあるかもしれない。

いやいや、口に出すのも、
考えるのさえ恥ずかしいよ

なんて、おとぎ話の世界の中のことだけ
だと思っている人もいるかもしれない。

人それぞれ、色々な解釈や定義があるだろうし、
たったひとつの正解があるわけでもない。

ただ、三十と数年そこらしか
生きていない若造の私でも

これは紛れもなく

「真実の愛だ」

と感じずにはいられない
エピソードがある。


「被災パトカー」に乗っていた殉職警察官

そのエピソードとは

3.11の東日本大震災で
津波に飲み込まれる
最後の最後まで

自らの命を顧ず
住民に避難勧告を
呼びかけ続け殉職した…

当時24歳だった警察官、
佐藤雄太さんのお話だ。

そのとき乗っていたパトカーと
同乗していた上司の警官の
ご遺体は数日後に見つかるが

彼は未だに行方不明のままだ。

見るも無残なパトカーの残骸が
津波の威力を物語る。

「被災パトカー」と名付けられた
そのパトカーは、家族に遺された
彼との唯一のアクセスポイントだった。

そんな彼の最期の手がかりを掴むべく
パトカーの横には「ポスト」が設置され

雄太さんに助けられた人たちからの
感謝の手紙や情報が寄せられていた。

「私も佐藤雄太さんに手紙を届けたい」

2015年3月、私は当時福島県いわき市の
児童養護施設で歌を通して子どもたちと
交流するご縁をいただいた。

ボランティアスタッフの方と前日入りし、
いわき市に住む現地のお知り合いの方に
被災地を案内していただいていたときに
「被災パトカー」の話を教えてもらい

佐藤雄太さんの勇気と愛ある行動に
大変感銘を受けた私は、
私もその想いを手紙に綴って
直接ポスト投函したいと思い

被災パトカーのある「仏浜」という
場所に連れて行ってもらった。

しかし、それらしきものが見当たらない。。。

佐藤雄太さんが所属していた
富岡町の双葉警察署に
電話で問い合わせたところ、

「震災遺構として正式に認められたので
双葉警察署の隣の公園での展示が決まり
ここ数日ちょうど移動したところだった」

との回答が。

そして、明後日がその記念式典だという。

ああ、なんというタイミング・・・

明日は児童養護施設での演奏の後
いわき市内のライブハウスをはしご・・・
そして明後日は朝イチのバスで
東京に戻らなければいけない。

「しょうがないね」というムードが漂う中、

なぜか私はどうしてもこのタイミングで
被災パトカーに会いにいかなければ…

という強い直感を無視することができなかった。


"偶然"だけど"必然"の出逢い


その直感に従い、式典の日は
東京に帰るバスをキャンセル。

教えてもらった双葉警察署横の公園に向かうと
たくさんの警察官と、マスコミ関係者がいた。

被災パトカーに近づいてみると
写真では見えなかったディティールから
言葉にはならない「畏敬」を感じた。

やはり、百聞は一見に如かず。

実物を見て、感じるものは
写真とは比べ物にならない。

式が始まり、佐藤雄太さんの
ご両親が献花をされるのを見たとき

私がなぜここに来るべきだと
強い直感を感じたのか、
その理由がわかった。

ああ、そうか、このご両親に出会うためだったんだ。

そう思い、式が終わった後、
ポストに投函ではなく、
ご両親に直接手紙を渡しに行った。

私のことを、マスコミ関係者だと思ったのか
最初は警戒していたお母様。。。

私は東京から福島の児童養護施設へ
歌いに来ていたシンガーソングライターで
数日前にこの被災パトカーのエピソードを知り

どうしても直接被災パトカーに手を合わせて
雄太さんに手紙を届けたくなったから来た

ということを伝えた。

すると、お母様は心を開いてくださり
お父様を呼び、3人で強く抱き合った。

私は、雄太さんの勇姿を伝えていくための
曲をつくり、そして、完成したら雄太さんと
ご両親の前で歌うことを約束した。

そのやり取りを近くで見ていたラジオ福島の
大和田新アナウンサーが、じゃあその歌の
発表はうちのラジオ局でやろう!と
応援してくださり、2か月後までに
曲を完成させることになった。


『守りたいもの』の歌に込めたメッセージ

被災パトカーに手を合わせたときに
降りてきたメロディーと言葉が

「守りたいもののために
命をかけたあなたを……」

というフレーズだった。

文字通り自分の「命」を「使」って
警察官という「使命」を全うした
その気高さと勇敢さと優しさ。


このパトカーに乗り
住民が津波から
逃げ遅れないように
最後の最後まで
声の限り避難勧告を
呼びかけ続けた
彼の姿が浮かんでくる。

誰かや何かのために
自分の全て……
命をかけられる……

これを「真実の愛」
と呼ばずして
何と呼ぶのだろう。

この人の勇姿と命を、
無駄にしたくない

そして被災パトカーの実物を見て
自然の驚異を思い知った私は

このことを後世に伝えるために
「歌」して遺そうと心に決めた。

そして偶然か必然か、
彼のご両親と出逢い、

もう一つ、この歌に大事な
エッセンスを込めようと思った。

遺されたご家族の気持ちに寄り添うことだった。

ご遺族と私には共通点があった。

私も父を海で亡くし、数日間行方不明で
安否を待つ体験をしていたことだった。

大切な家族を待つ時間は
ひたすら永遠のように感じて

何をしていても手に付かず上の空、
鉛が心につかえたままのような、
言葉にならない、
やり場のない感情を
少しでも代弁できないかと思い
自らの経験を重ねて詩を書いた。

とてもセンシティヴなことなので
言葉選びはとても慎重になった。

途中であまりにも私には大きすぎる
役割を引き受けてしまったと思い
スランプになった時期もあったが、

ご両親と会話をする中で
感じ取った雄太さんへの愛、
雄太さんの人柄などを思い出すと
自然と言葉とメロディーが沸き上がり
創作を進めさせてくれた。

ラジオでの発表前日、ギリギリ完成。

福島県浪江町のシンガーソングライター
門馬よし彦さんもギターサポートに入ってくださり
佐藤雄太さんのご両親と、ご遺影の前で
「献歌」させていただいた。

お母様からは

「この歌は、私の気持ちそのものです」

という言葉をいただけた。ほっとした。


"真実の愛"を教えてくれる場所、福島

それから、大和田アナウンサーは
福島の沿岸部を案内してくださったり
福島の魅力をたくさん紹介してくださり
イベントがある度に呼んでくださったりして

福島で復興のために日々愚直に生きる
地域の人々とのご縁を次々と繋いでくださった。

国が投げ出しても、捜索活動を続ける人

被災地に少しでも笑顔が戻るように
花火大会や菜の花迷路を企画する人

原発付近で人が離れて行っても
自分のお店を続ける人

最期までガンと闘い抜いた女の子や、
盲目のマラソンランナー・・・・


どの人の話を聞いても、

深い悲しみや怒りの奥には
誰かや故郷を想う
深い深い愛があるのだと
感じさせられた。

福島に行く度に、

「命とは何か」

「真実の愛は何か」

「何のために私は
 生きるのか、歌うのか」

を考えさせられ、感じさせてもらえる
私にとって大事な第二の故郷だ。

この地で、生まれ育った故郷を想う
人々の気持ちを思わずにはいられない。

たくさんの悲しみを背負ったこの地に
それよりも多くの笑顔の花が
咲いてほしいと願うばかりだ。

今年、「震災から10年」という
区切りのようなフレーズが溢れるが

「遺族に節目はない」

と、命の重さを教えてくれたのも
福島の人たちだった。

「過去」を忘れたくない。

それでも時間は待ってくれない。
「未来」に向けて半歩でもすり足でも
進まなければいけない、葛藤……
だからこそこの歌の最後の
フレーズで書いたように

どこかできっと頑張ってると信じて
私もいま 生きています
精一杯 生きています


「今」にスポットライトを当てて
私たちはただただ生きているだけで尊くて
奇跡なのだと、噛み締める日にしたい。

10年前に亡くなったすべての魂
そしてご遺族によせて…
2021.3.11  詠美衣

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▼当時、リアルタイムで書いていたブログも
残っているのでご参考ください。

▼『守りたいもの』こちらで視聴できます。
私が実際に被災地を廻ったときに撮った写真と、
2015年にライブで歌ったときの映像を合わせて作った動画です。


▼気に入っていただけた方は、音楽配信でダウンロードも可能です。


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