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24.余白(2) - iv (空間)

ここまで(18から23)で、

・「余白」は無駄に余ってしまった白い部分ではないこと
・「余白」は誰が主役か、どこが最重要かを、直感的に伝える構図上の工夫であること
・「余白」は、主役のまとう「自陣地」「自領域」のようなエリアであること
などをお話いたしました。

さらに、自分自身の作業や思念に、集中、没頭、没入しているという雰囲気を表す作例を紹介しました。

これを前提にお話を進めます。

今回のテーマは「空間」です。


1.見る


ミレーの<晩鐘>です。

15秒間ほど眺めます。


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さて。

余白はどこでしょう。





「頭部の周囲が空になっていて、とくに『余白』っぽいかも」
(=

「二人の周りには特に何もないから、周囲全部なんじゃないかな」
(=全体

どちらも正解です。


ただ、「全体」と答えた方の中には、「大正解!」の方と、「普通の正解」の方と、二種類いらっしゃると思います。

それでは、絵を詳しく見てまいります。


2.考える

(1)斜水性:縦横っぽさ 


まず確認です。
「6.斜水性(1) - ii 」で、すでに以下のことを観察しました。

貧しい農夫婦が、ジャガイモの収穫の前で祈りを捧げています。
素朴な人々による夕方の静かな祈りにふさわしく、「縦横っぽさ」でまとめてある構図です。

垂直線(縦線)は、土の上に静かに立つ主役の二人の姿のほか、男性の横に立てられた、遠い地平線から飛び出る右の教会の塔などに見られます。

水平線(横線)は、はるか後方の美しい地平線、女性の背後に置かれた一輪車の長い持ち手などに見られます。

カンヴァスは、主人公二人に合わせて縦長にせず、わざと横長に用いられています。そのこと自体も、水平方向への広がりを感じさせ、落ち着きや安定、静寂、厳かさの印象を作ることに貢献しています。


(2)余白:平面的に見る

ここから余白についてです。

まず余白としての空について見てまいります。

地平線が、人物二人の脇の下あたりの高さに設定されています。

キャプチャ、ミレー、晩鐘、地平線

その高さの設定のため、二人の肩から上の頭部は、夕暮れにさしかかる明るい日光の空を背景にして、非常にくっきりと黒いシルエットとして浮かび上がります。
「人物の周り、特にその顔周りをシンプルにして余白(自領域)を十分にとると、主人公が明示され、主人公の没入感が伝えられる」とお話してきましたが、このように、この作品でも、特に人物たちの頭部周りをシンプルにしようという意図が感じられます。二人の頭部の背景には、逆光の眩しい光があるばかりです。

逆光なので、顔や表情はよく見えません。匿名性が高くなったぶん、二人は誰でもあり得、観者からの感情移入は起こりやすくなります。単純化された彫刻のようなフォルムと、くっきりとした黒いシルエットの輪郭が、夕刻の祈りの重みを静かに強調しています。


(3)余白:立体的に見る

次に全体についてです。

二人の周りには、彼らの労働を象徴する鍬と一輪車、労働の成果を象徴するジャガイモを除けば、特段何も置かれていません。ですから、空も大地も含めて周囲全部が彼らの「余白」とも言えます。

しかし。

冒頭で、今回のテーマは「空間」と申し上げました。

このひと手間を忘れなかったでしょうか。


この絵の中の空間を、立体的に想像してみる
という、ひと手間を。

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主人公が二人います。
二人は、何ヘクタールもあるような広大な耕地を背景にして立っています。

これが、二人の持つ「余白」(自領域)です。


「彼らの周囲すべてが余白」という時、立体的に考えて、彼らの後ろに広がる何ヘクタールもの土地と空間を想定しながらおっしゃっていた方は、「大正解!」となります。

画面を平面的にのみ見ていた方は、「普通の正解」です。

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この絵は、平面的に見た場合、
「静かな祈りの表現を追求するならば、もうちょっと余白があってもいいのではないか?」と思うほど、余白面積が最小限に節約されています。

ですけれども、立体的に見れば、背後には実に広大な余白があるので、これくらいの平面的余白でも全く問題ないのです。

試しに、彼ら二人の背後がすぐに建物で閉じられているのを想像してみるとよいかもしれません。あるいは、彼ら二人の周りに家畜の群れがいるのを想像してみてみるとよいかもしれません。

例えばそれは、下図の左のようになるでしょう。

キャプチャ、ミレー晩鐘、背景の違いを比較

比較して見れば、原図のように何もない広大な土地が地平線まで広がっている方が、二人の祈りの無心と深さがより強く感じられることは一目瞭然です。

この時、視覚的に感知できるすっきりとした奥行の広さは、私たちの脳の中で、まじりけのない純朴な祈りの深さへと変換されて、認識されています。


余白は、このように「立体的に」あるいは「空間」として
作り出されている場合もあるのです。
そして、この絵の場合の「没入感」は、
静かな祈りを表すための効果的な演出として用いられています。


3.「構図」の工夫を知る

(1)空間性:縦方向の広がり

さて、ミレー<晩鐘>は、「余白」として奥行き方向への広がりを持っていました。

今度は、縦方向の広がりをご覧ください。

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どちらも、高い玉座に座る聖母子が中央にいて、その周りに聖人たちが立っています。聖人たちはそれぞれが物思いにふけるような表情やポーズをしています。

全体的な印象として、
聖人のそれぞれが深く静かに沈思黙考している雰囲気というのは、
どちらの絵の方が強いでしょうか。





左側の(B)の方が強く感じられると思います。

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(B)です。

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(B)では、聖人たちは画面の下半分に描かれています。縦長画面の上半分には、大きな建造物の壁面や柱、アーチや天井が見えます。
聖人たちは建造物に対して相対的に小さく、彼らの頭上には、彼らの身長以上の空間が広がっています。

そこにはぽかんと大きな空間があります。
これが「余白としての空間」です。
見えないけれども、彼らの上には、漫画で言うところの「吹き出し」でもあって、「・・・・・」などと書かれている、そんなイメージでしょうか。
まるでこの見えない「吹き出し」のために、空間が広く取っておかれているかのようです。

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(C)です。

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(C)では、聖人たちは狭い空間に立ち並んでいるように見えます。
彼らは建造物に対して相対的に大きく、彼らの上には、すぐに天井があるように見えます(玉座の上でマリアが立ち上がったら、頭が天井にぶつかってしまうかもしれません)。背後や側面にも壁が迫っています。一人一人から浮かび上がる思念がたゆたうことのできる空間が(まさに余白が)、確保されていないように思えます。
また、狭く閉じた空間に並んで立っていると、隣の人と接近しているような感覚が強くなります。それは、一人一人が自分の内面に深く入り込む哲学的思索にはあまり相応しくない環境です。

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左側の(B)では、人物たちの頭上に大きく確保された
余白としての空間」が、
人物たちの深い宗教的瞑想にふさわしい、静謐な雰囲気を作る
ことに
貢献しています。


(2)空間性:手前方向の広がり

最後に、手前方向の広がりをご覧ください。

19世紀のドガの作品です。

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疲れた表情の女性が、肩を落として座っています。
目は虚ろで、ぼんやりと一人で考えごとをしているようです。
すぐ隣に紳士が座っているにもかかわらず、彼はそっぽを向いており、二人の間に心的交流は感じられません。

「余白」はどこでしょう。





キャプチャ, degas space

彼女の余白は、画面を立体的に見た場合にこそ、現出します。
彼女の余白は、彼女と私たちの間に広がる「空間」です。
上図の黄色点線の円のあたりをご覧ください。実際にはそこにはテーブルが斜めに置かれており、正確には「何もない」わけではありません。
しかしこのテーブルは、彼女の自領域=「余白としての空間」を確保するために、私たちとの距離を保持するために、置かれているように思えます。

一般的な解説には、「二人の背後にある黒々しい影脚のないテーブルなどが、都会の孤独や不安、寄る辺なさを表しています」などと、しばしば書かれています。しかし私たちは、実は、この私たちから彼女までの距離感からもまた、彼女の孤独な内面を感じ取っています(「黒々しい影」は上図の二つの青色矢印を参照)。


視覚的に感知できる、彼女の手前側に作られた
「余白としての空間」の大きさは、私たち観者の脳内で変換され、
彼女自身の抱える孤独感の大きさ、彼女自身の考えごとの大きさとして、
認識されるのです。

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最後に質問です。

どちらの方が、「私(観者)は彼女から疎外されている」と
感じるでしょうか。


キャプチャ, bbb






左です。

(隣に全体図があるので、右側の絵を単独の別の絵として眺めるのがちょっと難しいかもしれませんが・・・。)

左側の絵では、私たちは文字通り、
物理的にも、心理的にも、彼女から「距離を取られている」からです。


4.まとめ

まとめます。
余白は、このように「立体的に」あるいは「空間」として作り出されている場合もあることを見てまいりました。
そして今回、「没入感」は、静かな祈りや宗教的瞑想、哲学的思索、そして都会の孤独を表すために貢献していました。

「余白としての空間」は、画家たちによって、このように理に適って用いられています。

以前、「9.中心と放射状線(1)- i 」で画面を平面的に見て放射状線を見つける練習をし、「10.中心と放射状線(1)-  ii 」で画面内を立体的に見て放射状線を見つける練習をしました。 

今回は、それと同じです。
「21.余白(2)没入感 - i 」では、画面を平面的に見て余白を見つける練習をしました。今回は、画面内を立体的に見て、余白としての「空間」を見つける練習をいたしました。


最後までお読みいただき、どうもありがとうございました。


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