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お前のアイデンティティじゃないから

日本の一部リベラル派でも前々からやらかしている「地方の問題を語るのにセリフをその地方の方言で訛らせて書く」あれ。
恐らくハリウッドとかのリベラル左派っぽい俳優など有名人が顔も知らない、ろくに見ていない非英語圏のファンに対して¡Muchas gracias!とかشكراًとかSNSに書き込むのと似たようなノリでやっているのだろうが、個人的に見ていて歯痒いを通り越してイライラさせられる。

ところで話はいきなり逸れるが、私は洋装のドレスやモスクでのヒジャブとか一部宗派の教会におけるベールのような、ドレスコード上どうしても着なくてはいけない服でもない限り、いわゆる民族衣装とくれば私は洋服と自分のルーツに関わる服以外はコスプレでも着る気が起きなくなってきた。どうしても「服に着られている」感覚が抜けなくなったのと、着ることによってその文化を持つ集団や民族の尊厳が害われると思うようになったからだ。だから観光地やイベント等で「民族衣装を着てみよう」とあっても最近は気分が乗らなくなってきた。
それと同じように、昔から私は仏英日等各種言語を学んだり読み書きに使ったりするのは好きだが、それも大概はあくまでその言語を音楽の理解とかとにかくなんらかの「手段」「ツール」として使うから学んでいるのであって、言語習得そのものを目的としているわけではない。だから冒頭で軽く触れた英語圏の住民が非英語圏のユーザーに対して彼らの第一言語を発するのも、重大な意味もなく軽いノリでやたらめったらにやられるとイラっとするのだ。

方言や国内の別言語の問題となると、日本国内に限定してもさらに深刻化する。
社会言語学を日本で学んだ人なら一度は聞いたことがあると思うが、特に東北地方や沖縄には明治期に学校教育の段階で方言を発した生徒に「方言札」を首から下げさせて標準語に矯正させたという歴史があることは忘れてはいけない。九州も含めとにかく東京外の地域はみなそうだったろう。またアイヌに至っては自身の言語の使用まで禁じられたのみならず、あの「旧土人保護法」の下にさらに激しい「民族浄化」の悲劇に見舞われている。
それで東北出身者には-よその地方でも訛り丸出しという人も今ではいるにはいるが-戦後も大抵は別の地方へ行けば、訛りを消すことに躍起になっていたものである。東京人他にバカにされて尊厳をへし折られて続けてきたからだ。この辺の温度感覚は東北に方言が近いせいで南関東人から「広義の東北」扱いされることもある北関東や、住民が自らの方言を東国モンに変な言い回しやイントネーションで真似されたり微細な変異を無視した「関西弁」と一括されたりする関西でも十二分に言えよう。なお沖縄の言葉については、ウチナーヤマトグチ(≒いわゆる「沖縄弁」?)ではない「本当の」ウチナーグチは今日の日本語と別個に扱うべしという意見も最近はあるようだが。
それさえも無視するかのように、和人やナイチャーや白河以南の住民がアイヌや沖縄や東北の住民と「連帯」するためにか、彼らの言葉を不自然にスローガンに使うのを見ると腹立たしくさえ思えてくる。彼らがまだ相手の言語を使って敵意を向けてくるならまだいい方だ。言われた方は不愉快でもすぐ拒絶できるし、その権利も十二分にあるのだから。

という訳で。
その土地の住民が自らの言語や方言でスローガンを書いたり主張したりするのは大いに尊重すべきと思うが、他所者が彼らとの「連帯」だか何だかを示そうとして軽々しくその言語を使うのは控えめに言って違和感しか覚えない。否、連帯先の住民の尊厳を踏み躙る行為*だから実にやめていただきたい。新聞も取材対象の発言の書き起こしでもない限り見出しにも使うなよ。
その言語や方言、おめーのアイデンティティじゃねーから!

*なおそこに「連帯」する先の住民や土地のステレオタイプも加わると目を背けたくなるほどさらに醜悪なものになる。見出しの絵とかね。

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