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ショートショート「幻聴と甘い珈琲」

♪〜♪ ♬
布団に潜ってしばらくすると、聴こえてくる。
朝の天気予報で流れるような爽やかなフュージョンの音楽が。
リビングのテレビがつけっぱなしかと思うが、その可能性を1秒で取りやめる。

いつもの幻聴だ。月に一度くらいのペースで悩まされる。時間は夜が多い。

音の正体を探ろうと、部屋中を隈なく探したこともある。耳の中に何かスピーカーのようなものが詰まっているんじゃないかと、指を奥に突っ込みすぎて流血したこともある。朝になって、そんな極小スピーカーなどこの世にないじゃないかと冷静になり、ついに私も気が狂ったかと不安になった。

曲となっているように聞こえるその音ひとつひとつを脳内で追ってみることにした。もしかしたら血液や筋肉の微かな移動音のようなものなのかもしれない。そう思うが、脈のドクンドクンとした音とは別に、しっかりとしたメロディーが別の次元で流れている。

前世の記憶が魂から鳴り響いているのだろうか。
なんだか信じ難いが、もはや何かに正体の落とし所をつけないと気が済まない。

私は幻聴が聞こえる瞬間をカレンダーにメモして行くことにした。
覚えているかぎり、先月の29日、簿記試験の前夜だったので非常によく覚えている。眠れなかったのだ。うるさすぎて。朝までメロディーが鳴り響いていたからだ。今月は昨日、27日だ。

メモを取り始めてから約一年がたった。

相変わらず正体は掴めない。ただ、一ヶ月に一度だけ聞こえるという規則性はあった。一ヶ月に一度だけ…
すると付けっぱなしのラジオからこんな会話が聞こえてきた。
「昨日の満月みましたか?綺麗でしたね〜」
まさか…私は慌ててネットで「満月 スケジュール」と検索する。
「合ってる…
どれも合ってる…
毎回満月の夜だ…」
あらゆる周波数が満月にぶつかると、この太陽系のいろんな惑星と月の関係から偶然に音楽が出来上がり地球にいる私の耳に届くのかもしれないという私なりのシンプルな結論を出した。

それから、私は毎月の満月の夜を心待ちにするようになった。
予定は空白にしておいた。
ラジオも消して、暖かい紅茶を飲みながらただその音楽を待つ時間も素晴らしかった。霞みがかった雲を割って満月が綺麗に輝き出すと、静かに音楽が流れ出す。部屋の電気を全て消して目を瞑った。その時間は何にも変え難い最高の時間だった。

満月の翌朝はやや寝不足ではあるが、気分はとても良い。
いつもよりやや早く出勤し、自動販売機でコーヒーを買っていると後ろから会社の後輩が寝癖を気にしながら声をかけてきた。
「僕、昨日眠れなくて。頭の中から音楽が聞こえてくるんですよ。あ、こんなこと言ったら変な人と思われるかもしれませんが。」
同じ現象の人に初めて出会い驚き、私はしばらく後輩の顔を凝視してしまった。
「べ、別に変な人とは思わないけど…今度よかったら一緒にランチしない?」
突然の誘いに後輩は目を丸くしていたが、嬉しそうに是非と答えた。

誰かを誘ったことは人生で初めてかもしれない。
舞い上がった気持ちで席に戻りコーヒーを啜ると、いつもより甘く感じた。


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