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芸術のわたし/わたしたち⇔現代社会のわたし/わたしたち

UNMANNED無人駅の芸術祭/大井川2024を通して考える、地域の視点からのアートの価値について。



芸術の文脈ではいやというほど語られているのだろうけれど。
地域づくりからの視点で思うこと。

これまでの日本は戦後どう復興するかが大きなテーマ。
それは「わたしたち」で一丸となって社会を作っていくことが最適な時代とも言い換えられる。
島国に生きる日本人、「わたしたち」みんなで日本を復興させてきたことはある意味得意分野だったのだろう。

その中で生まれていった芸術(現代アート)は「わたし」の視点。
「わたしたち」で作られている社会において、「わたし」が何をどう表現するかが社会に対する問題定義として機能していた。
極端なまでに「個・私」を表現するということ。

社会と芸術はどんな時代も常に反対の存在にある。
芸術は問題定義をするものだ。と言われるのは社会との位置関係からもそう言える。そこにアートの役割がある。

現代社会は「わたし」の時代に入った。
多様性を認めよう、みんな同じでなくていい。
みんなそう言うが果たして実現できているのか。
結局縦割りで、口先だけで、本当の意味で精神の在り方としての多様性を“受容”することにはまだまだ遠い。(それは話がそれるのでまたの機会に)

「わたし」の時代だからこそ。
これからの芸術は「わたしたち」の視点が大切ではないのだろうか。そのことが逆に社会に対する問題定義につながる。同時に地域づくりからアートをなぜ取り込んでいくかは、前時代ではできなかったと思う。それは行政主導による地域づくりに対し、我々NPO(民間)の側面から独自の視点を持ってそこに問題定義を投げかけていく役割が我々にもあるから。

コレクティブをはじめとする芸術分野での「わたしたち」の動きが語られることが多いが、それだけでなく、アーティストと地域のじいちゃんばあちゃん、をはじめとする、交わるはずのない人と人とではじまる「わたしたち」の動き、表現。

アーティストという一人の人間と表現する作品は、地域の発見、失われた地域のアイデンティティを再発見するための手法であり、過程にこそ目的が潜む。交わるはずのない人や環境に出会った時に、誰に協力を求め、誰の心が動かされ作品と表現にどう作用していくのか。

地域にアートが上からふってくる時代は終わった。
地中深くから萌芽していくもの。
アーティストが蒔いた種を、住む人やサポーターと共に育てていくような、そういう表現とアーティストこそ、新時代の「わたしたち」の視点を持つ新しいアーティスト像になっていくのではないか。

それには、
自身の表現とあらわす方法を圧倒的に1人でやり抜く力を持ちながらも、地域という凝り固まった関係値と、アートなど全く知らない人と場所の中で、その力を絶やさず、人と関わり続けながら、最大の表現を目指すことのできる人間力とコミュニケーション力と、表現力が必要となる。

そういうアーティストと表現を、新時代の「わたしたち」の感覚を持ち合わせた新しいアーティストとして光が当たっていくような、そういう取組を行っていきたいと思うのだ。

同時に、地域とアーティストをつなぐ黒子としてのコーディネーター役が益々重要になる。育成というとはばかられるが我々も考えたい。アートマネジメントではない、地域とアートの、地域におけるアートのマネジメントの重要性だ。地域の土台作りに直接作用していく。

地域芸術祭を7年開催してきて、これまではアートの先で地域への再発見を導くことを目的としてきた。
これからは、民俗学の視点、農業、地域コミュニティ、四季折々の風景への道しるべという地域の「ケ」にアートが触媒・媒介し、アーティストという人間が地域に混ざっていくことをあらわしたい。そのための「ハレ」をどう作るか、考えたい。

抜里エコポリスの変化、アーティスト達との絆。アーティストとアーティストとの絆。集落の変化。
見ていてそんなことを考える。


ちょっとかっこよさげな「抜里エコポリス」
アーティストの制作をこなす万能集団

そして。
アートを見せるためだけに地域に作品を置くのではない。
アーティスト、集落の人、サポーター、来訪者。
みなで共に生きていく。同じ場所に住んでいなくとも共に生きている、という「わたしたち」の視点と感覚をつくるために。

離れていても共に生きている人がいる。と思えたら人生は豊かで何が起こってもサヴァイブできると思う。
「わたし」の時代だからこその「わたしたち」なのだ。


驚かれるが、我々の地域芸術祭を運営している最小単位は「夫婦」。
「わたし」と「わたし」が集まり「わたしたち」となる最小単位は夫婦だ。
その周りに両親がいて、両親の仲間がいて、私たちの仲間が広く淡く広がることでこの芸術祭は成り立っている。家族から発する芸術祭、家族の単位こそ地域の核だ。一番小さな「わたしたち」。
家族だから正しいというのではない。共に生きている感覚を持ちえたなら、誰とでも家族になれるのだ。交わるはずのない人とも。

芸術祭はあと10日で閉幕する。私たちの第一章も閉幕。第二章はどんな幕開けとなるのか、変化を恐れず、変化していく。

・・・・・・
確かに人は減っていく。減っていくから地域は消滅するのか。
我々はそんなことはないと断言します。
現代社会が効率化、スピード化の先で捨てていくもの、数値や既存の価値の中で“お荷物”的存在になっていくもの。
アートによりそれは日本全体にとっての新たな価値となり無人と呼ばれる地域がひらいていく姿は1つの奇跡と呼ばれるかもしれません。
我々はこの希望のプロジェクトの歩みを止めることなく進めていきます。

UNMANNED無人駅の芸術祭HPより

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