社会の動き方の理念型

社会は一体どのように動くのか。

会社員や公務員が中心を占める現代社会でその駆動力となっているのは、年次毎に定まる予算だと言えそうで、その使途が定められてそれに従って目標が設定され、その目標をこなしてゆくことで仕事が行われる、ということになる。会社ならば、毎年の決算に向けて利益目標が立てられ、それに向けて生産を行い、販売し、利益を達成する、ということの繰り返しで、利益を上げるためには社会で需要のあるものを作り、そのコストよりも高い価格で売ることでその差額を利益とすることになる。そこで、社会で需要のあるものが生産され、それによって社会が多くの人の望む方向に進んでゆくことになる。ただし、大量生産しないとコストは下がらないので、個別の需要というよりも、型にはめられた定型的な需要として生産が行われ、それが本当に一人ひとりが必要としているものなのか、というのは明らかではなく、それゆえにマーケティングのようなもので需要を喚起し、自社の製品が他社のものよりいいのだ、とアピールして、生産者による競争と消費者による選択によって相対的需要を争う、ということになっている。

一方、社会の需要というのは、公的な需要として顕在化することが多く、そのために、政府の役割というのが次第に大きくなっているといえる。政府は、利益を一義的とするのではなく、政治的に定められた目標に対して予算を割り振り、その目標を達成してゆくことで社会が変わってゆくことになる。だから、政治的目標設定、さらにはそれに対する予算の割り振りというのが大きな意味を持つことになり、そこで政治的権力争いと主導権をめぐっての争い、そしてそこにどう自分の意志を組み込むのか、という有権者と政治家との駆け引きのようなことが日常化することになる。一旦目標に組み込まれれば、それは自動的に進んでゆくことになるので、目標設定、そして予算の中にどれだけ自分の考えを組み入れるか、ということが、日常の仕事よりも大事なことになってゆき、そこに自分の意志を組み入れられなければ、いわば他人の目標のために日々仕事をさせられるという不条理なことが起こることになる。

このように、会社にしろ、政府にしろ、現状の仕事の進め方は、組織による目標設定があり、それに従って組織全体が目標管理されてそれで動く、ということになっており、個々人の目標や仕事のやりがい、そして日々の生活からそこに密着した自分の需要というものは二の次、三の次になっている。つまり、自分のために自分の時間を使って自分の生活をよくする、ということではなく、組織があり、その組織の目標設定に従って自分の時間を売り払って働いて給料を得て、そしてそれを用いて自分が正確に欲しいと思っているものではなく、市場の中で自分が欲しいと思っているものに近いものがあればそれを買う、という、全体として組織を中心として社会が動いていることになっている。なぜ、自分の目標設定のために自分が一番合理的だと思う方法で自分の時間を使う、ということができないのか。なぜ一旦会社や政府といった組織に目標を委ね、そしてその組織に管理されることで目標達成をしているかのような気分にさせられないといけないのか。

これは、産業社会ができたときに(あるいはそれ以前から)、一人でできないことを多くの人を動員することで”効率的”に実現することができたので、それが予算制度によって恒常化し、常に組織で目標を立てそれを実現するのが”効率的”であるという通念が出来上がっていること、そしていつの世にも人を管理し、支配したがる権力志向の強い人物はおり、それがこの組織というものを使うことで世界を思い通りにできる、ということに気づき、そしてその権力志向の強い人々の間での競争の結果として階層的指揮系統によってその権力志向と”管理能力”にあわせて集権的権力が形成されるようになってきたと言える。そしてさらに、その集権的権力の頂点付近が限られた人によって動かされることから、それに基づくネットワークによって、市場での調整よりも、権力者間での取引・駆け引きのネットワークが優先され、それに付随したそれぞれの権力機構内部での取引・駆け引きネットワークによる、関係性ネットワーク網によって社会が動くことになっている。このようにして、社会は個々人の自由な意志や目標設定、そして行動に基づくというよりも、組織的目標管理をめぐっての権力闘争とそれに伴う関係性ネットワークに基づいて動いているといえそうだ。

いずれにしても、目標に向かって行動する、ということが社会を動かす原動力となっているのならば、組織を噛ませる必要もなく、個々人が自分で自分のための目標を設定し、そこに向けて日々自分で努力し、できることもあればできないこともある、ということで進めていった方が、個々人の満足度は確実に高まる。そして、他者の目標について共感できることがあれば、自発的に協力関係ができ、できることを助け合うことでお互いの目標達成が促進されることになる。その相補的ネットワークの方が権力闘争を伴う組織的ネットワークよりもはるかにストレスが少なく個々人の目標達成が行われることになるだろう。そして、仮に集団で行った方が早い仕事があるならば、そのときにスポット的に協力関係が形成され、共通目標が達成されればまた個々人の目標に戻る、ということの方が、組織ありきの仕事の在り方よりもはるかに個々人の自立性が重視されることになる。その中で、たとえば定期的に共通の目標を持つ人々が物理的に、あるいは仮想空間で日程を決めて集まって情報交換する、ということがあれば、そこに向けて個々人が自分の目標を設定してゆく、という自発的目標管理の仕組みというものができるだろう。

一方で、社会の底流を動かしているものとして、人々の思念のようなものがある。人は誰しも固有の文脈によって行動が規定されており、つまり、過去の経験の積み重ねから現在、そして今後の行動の方向性が定まることになる。その中で、どうしても前に進めなくなる時というのは、過去の文脈からの継続性の中で何かが整理がつかず、つまり、大きく言えば社会、そこまで行かなくても、接する関係者あるいは周囲の人と、なんらかの形で文脈がずれており、そこで話が噛み合わなくなる、相互作用が途切れてしまうということがあるのだと思われる。その壁をなんとかして打ち破ろうと力づくで突破する、ということが更なる文脈の乱れを引き起こし、それは結局権力闘争のような形で、どちらが、誰が正しいのか、ということを力、速さ、あるいは論理のようなもので決着をつけるということになり、それによって特に政治は政策ではなく、思念によって動くようになる。

果たして、そのような問題について善悪によって決着をつけることに意味があるのだろうか。そのやり方では、負けた方にはまた怨念がこもり、どこかでやり返してやろう、ということになる。そしてその怨念のようなものをうまく集め、それをうまく利用するものが権力の階段を素早く登ることになり、政治はますます政策ではなく思念で動くようになる。それは社会が善悪に基づく対立に満ち溢れることになり、誰もが負け組となって悪のレッテルを貼られることを避けるために、悪のトークンのババ抜きのようなことが常態化し、社会から信頼関係が失われる。

そういったことは、善悪で始末をつけるのではなく、何が引っ掛かっているのか、どこに違いがあるのか、ということを丁寧に区分けし、そこを解きほぐしてお互いの立場を尊重できるような関係を構築して相補的な関係を築けるようにしなければならないのだろう。大きな蟠りとして引っ掛かっていることは、その後に必ずなんらかの社会的事件として顕在化する。そこで、過去の出来事を振り返る何周年のようなことで、過去の認識について個々人が整理を行い、その認識を交換することでそれぞれの文脈の位置付けを定めることができるようになる。お互いの記憶を尊重することができれば、話が合わない、ということは多くなくなるだろう。しかしながら、一方がなんらかの形で嘘によって事実を覆い隠そうとすれば、それは必ずどこか別のところで綻びが出ることになる。だから、顕在化した問題についておかしいと思うこと、気になることを整理してゆけば、大きな引っ掛かりは解消され、社会は滑らかに動くようになるのだと考えられる。

このように、一方で個々人のやりたいことに基づいた独自の目標設定と管理、そして相補的協力関係の構築、もう一方で過去の認識や記憶についての定期的な周囲とのすり合わせによって誤解を解き、違いを明確化してゆけば、多様な前提に基づいた個々人の目標管理、記憶管理による日々の仕事によって、組織に頼ることなく、社会を動かしてゆくことができるようになるのではないだろうか。

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