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【Lonely Wikipedia】René Descartes

大変興味深い人物をご紹介頂いたので、調べてみた。

日本語よりやっぱり英語の方が情報量が多い。そしてフランス語版とも内容がちょっと違うみたい。できる範囲で読み比べながら。

なんて言っていたら、最後の方は結局ほとんど日本語版からになってしまった。実は日本語版が一番まとまっていた、というオチ。それはともかく、

デカルトは1596年に、中部フランスの西側にあるアンドル=エ=ロワール県のラ・エーに生まれた。父はブルターニュの高等法院評定官であった。母からは、空咳と青白い顔色を受け継ぎ、診察した医師たちからは、夭折を宣告された。母は病弱で、デカルトを生んだ後13ヶ月で亡くなる。母を失ったデカルトは、祖母と乳母に育てられる。
1606年、デカルト10歳のとき、イエズス会のラ・フレーシュ (La Flèche) 学院に入学する。1585年の時点で、イエズス会の学校はフランスに15校出来ており、多くの生徒が在籍していた。その中でもフランス王アンリ4世自身が邸宅を提供したことで有名であるラ・フレーシュ学院は、1604年に創立され、優秀な教師、生徒が集められていた。
イエズス会は反宗教改革・反人文主義(反ヒューマニズム)の気風から、生徒をカトリック信仰へと導こうとした。そして信仰と理性は調和する、という考え(プロテスタントでは「信仰と理性は調和しない」とされる)からスコラ哲学をカリキュラムに取り入れ、また自然研究などの新発見の導入にも積極的であった。1610年に、ガリレオ・ガリレイが初めて望遠鏡を作り、木星の衛星を発見したとの知らせに、学院で祝祭が催されたほどである。ただし、哲学は神学の予備学としてのみ存在し、不確実な哲学は神学によって完成されると考えられていた。

このあたりはなぜか日本語版が一番詳しい。要するに、カトリック、しかも最も進歩的とも言えるイエズス会で教育を受け、スコラ哲学などにも触れていた、ということ。カトリックが重要なバックボーンになっていた、ということが重要。

In accordance with his ambition to become a professional military officer in 1618, Descartes joined, as a mercenary, the Protestant Dutch States Army in Breda under the command of Maurice of Nassau, and undertook a formal study of military engineering, as established by Simon Stevin.  Descartes, therefore, received much encouragement in Breda to advance his knowledge of mathematics.

これは英語版だけの情報。軍人になりたかったんですね。1618年にブレダで軍隊に入ったと言うこと。

In 1618, he also succeeded his elder half-brother Philip William as Prince of Orange, a title he seems rarely to have used.

ここで大変興味深いのは、1618年には、ここに出てくる(オラニエ公)マウリッツの兄で、スペインで育ってカトリックを信じていたフェリペ・グイレア―モが亡くなって、そのオラニエ公の称号を嗣いだ、ということ。

お父さんや弟とは仲が悪かったらしい。変死らしいですが、その内容は英語版に少しだけ出ています。

さて、ブレダの町はオランダの中でも一番南にあり、80年戦争では最前線で争奪戦の舞台となっていた模様。つまり、1618年にそこがオランダ側だったのかスペイン側だったのかは実はよくわからない、ということ。デカルトがカトリックを信じていたことを考えれば、フェリペが変死し、オラニエ公の座をプロテスタントのマウリッツが盗ろうとしたことに対して義憤に駆られてカトリックの軍隊に参加した、と考える方が遙かに理屈に合う。

このあたり、オランダ史に関わる非常に重要な事と連動しているようだが、詳しく見る余裕がない。とにかく、この同じ年にカルヴァン派にとって重要なドルト会議というものが開かれたことになっているが、それが本当にあったのか、あったとしてもドルトレヒトであったのか、など、疑わしいことが多くあるのだが、ちょっと今は見ている余裕がない。デカルトの存在は、その点でも、カトリックであったということが余り広く知られると、オランダにとってはあまり都合が良くないように感じられる。

1618年11月、オランダ国境の要塞都市ブレダにおいて、イザーク・ベークマンという、医者でありながら自然学者・数学者としての幅広い知識をもつ人物に出会う。ベークマンは、原子・真空・運動の保存を認める近代物理学に近い考えを持っていた。コペルニクスの支持者でもあった。ベークマンは青年デカルトの数学の造詣の深さに驚き、そしてデカルトは、感化されるところまではいかないものの、学院を卒業以来久しい知的な刺激を受けた。このときの研究の主題は、物理学の自由落下の法則・水圧の分圧の原理・三次方程式の解法・角の三等分のための定規の考案などである。処女作となる『音楽提要』はベークマンに贈られる。

このベークマンというのがカルヴァン派となっているが、それが怪しいように感じる。支持していたというコペルニクスはカトリック教会に勤めていたということもあり、そしてラテン語学校で教えていたということからも、どうもカトリックだったのではないかと感じられる。それがその後ではあるがドルトレヒト大学で教えていたと言うことになると、そこで本当にドルト会議が開かれたのか、ということがどうも怪しく感じられるのだ。

1619年4月、三十年戦争が起こったことを聞いたデカルトは、この戦いに参加するためにドイツへと旅立つ。これは、休戦状態の続くマウリッツの軍隊での生活に退屈していたことも原因であった。フランクフルトでの皇帝フェルディナント2世の戴冠式に列席し、バイエルン公マクシミリアン1世の軍隊に入る。
While in the service of the Catholic Duke Maximilian of Bavaria since 1619, Descartes was present at the Battle of the White Mountain near Prague, in November 1620.

デカルトは翌年にはドイツへ行っている。この時フェルディナント2世とマクシミリアン1世は協力してプロテスタントと戦っており、それを見てもデカルトがカトリック側であったことは明らか。

Descartes returned to the Dutch Republic in 1628. In April 1629, he joined the University of Franeker, studying under Adriaan Metius, either living with a Catholic family or renting the Sjaerdemaslot. The next year, under the name "Poitevin", he enrolled at Leiden University to study both mathematics with Jacobus Golius, who confronted him with Pappus's hexagon theorem, and astronomy with Martin Hortensius.

1628年にオランダに戻ったということ。25年にマウリッツが死んでおり、弟のフレデリック・ヘンドリックが後を継いだが、この時期はまだおそらく今のオランダ南部の辺りはまだオランダではなく、カトリックが優勢だったのではないかという気がする。

ここからしばらくデカルトがどこにいたのかよくわからなくなる。出版はラテン語やフランス語でなされているわけで、オランダに長く住んでいたとはどうにも思えない。おそらくオランダの話は誇張されて伝わっているのだろう。

1641年、デカルト45歳のとき、パリで『省察』を公刊する。この『省察』には、公刊前にホッブズ、ガッサンディなどに原稿を渡して反論をもらっておき、それに対しての再反論をあらかじめ付した。『省察』公刊に前後してデカルトの評判は高まる。その一方で、この年の暮れからユトレヒト大学の神学教授ヴォエティウスによって「無神論を広める思想家」として非難を受け始める。

『省察』はパリで公刊されており、その頃パリあるいはフランスにいたのは固いのではないだろうか。プロテスタントからの「無神論を広める思想家」との非難は、いかにデカルトがカトリックを強く補強するような理屈を展開していたかがよくわかる。

1643年5月、プファルツ公女エリーザベト(プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の長女)との書簡のやりとりを始め、これはデカルトの死まで続く。エリーザベトの指摘により、心身問題についてデカルトは興味を持ち始める。

プファルツの一族も非常に複雑ではあるのだが、いろいろ見たところ、やはりエリーザベトも、カトリックとは言い切れないが、少なくとも反カルヴァン派であったと言えそう。カルヴァン派の過激さはあちこちで敬遠されていたのでは。

1649年の初めから2月にかけて、スウェーデン女王クリスティーナから招きの親書を3度受け取る。そして、4月にはスウェーデンの海軍提督が軍艦をもって迎えにきた。女王が冬を避けるように伝えたにも関わらず、デカルトは9月に出発し、10月にはストックホルムへ到着した。
1650年1月から、女王のために朝5時からの講義を行う。朝寝の習慣があるデカルトには辛い毎日だった。2月にデカルトは風邪をこじらせて肺炎を併発し、死去した。デカルトは、クリスティーナ女王のカトリックの帰依に貢献した。

クリスティーナも、最終的にカトリックに改宗したということで、やはりデカルトは一貫してカトリック側であったと考えらそう。

ちょっと最後はしょってしまったが、デカルトがオランダを中心に活動していたと考えるのはたぶん違っている。いかにオランダのカルヴァン派を押さえ込むか、ということに腐心した、学者と言うよりもむしろ戦略家に近い人物だったのではないか。このデカルトの頑張りが、後にフランス語圏カトリックのベルギーという国を成立させる大きな原動力となっているのではないか。

デカルトは、単なる哲学者と言うよりも、近世のレオナルド・ダ・ヴィンチとでも言えるような、万能的な、非常にルネサンス的な人物だったのではないか。

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