マルクス主義と環境問題


こちらで大変興味深い討論が紹介されていましたので、勝手に触発されて記事にしてしまいます。

番組自体見ていないので、リンク先内の討論内容のリンク記事からの推測となりますが、大雑把に言えば、資本主義の限界が環境問題として現れている、という内容であると解釈しました。

マルクス主義の文脈で資本主義批判すれば、環境問題に行き着くのはある種の必然なのでしょう。生産要素が土地・資本・労働からなっており、資本と労働の対立構図を描けば、有限世界において資本から取り分を奪えなければ土地から奪うしかなくなることになり、マルクス理論は、革命によって資本を倒さない限りは、労働が取り分を増やそうとすればするほど、土地、つまり環境に皺寄せせざるを得ないという論理構成になっていると私は考えます。

その点、効用をベースにした近代経済学は、理論的には環境収奪する必要はなく、その意味では理論的には環境問題の原因はマルクス経済学にあるのだ、と言えないこともないのでは、と感じます。もちろん、近代経済学においては、環境は外部不経済として、いわば計算外に置いて無視しているだけなので、近代経済学、そしてそれを理論的根拠の少なくとも一部においている資本主義の考え方が環境問題に責任がないなどというのは明らかな詭弁であり、私はそれに与する気は毛頭ありません。

いずれにしても、問題は、残念ながら、マルクス理論に基づいてしまえば、環境問題を理論的に解決する方法はまずない、ということなのでしょう。まあ、それはそもそも定義の問題であり、環境とは何か、あるいは環境問題とは何の問題なのか、ということが明確に定義できていない以上、その理論的解決は端からできない訳であり、環境問題はどこまで行っても感情問題にしかならないのでしょう。その意味においては、ひどい言い方になりますが、革命での解決を目指すマルクス主義にとって、環境問題は非常に使い勝手と都合の良い道具、すなわち環境で煽って革命を起こすという無限機関の中核、いわば打出の小槌であるということにしかならないのでしょう。つまり、マルクス主義では環境問題は解決しないし、むしろ解決してしまったら困る、という理論的二枚舌状態にあるといえるのでしょう。

要するに、資本主義へのオルタナティブを提示するのには、まずマルクス主義から脱却しないといけないのに、代替案は政治的には常にマルクス主義に吸収され、そしてマルクス主義のおもちゃになって終わるという非常に不幸な状態が続いているのだと言えるのではないでしょうか。それが典型的に現れているのが、環境問題そのものであり、環境問題で資本主義批判をすれば、資本側からすれば、じゃあ金出すよ、ということで環境投資の残高が積み上がり、それによって労働者は継続的に仕事を得られる、という、環境劇場での資本と労働のプロレスをみるだけで、マルクス主義者は、俺たちが騒いでやったから環境投資が増えたんだ、と悦に入り、恩に着せる、という構図になる訳なのでしょう。もちろん環境投資によって問題解決されることは素晴らしいことですが、それはマルクス主義とは基本的には何の関係もなく、仕事で日々取り組んでいることの成果が出た、ということであり、その意味ではむしろ資本主義的な成果であると評価せざるを得ないのではないでしょうか。

このマルクス主義からの脱却ということをいかにして実現するか、ということですが、まず、マルクスの時代はもう百五十年も前であり、現在とは全く状況が違うのだという基本的な認識が必要なのでしょう。典型的には、既に挙げた土地・資本・労働という三要素による分析がどこまで有効なのか、ということです。農業中心の世界では土地の価値は非常に高かったのでしょうが、サービス産業が中心となった世界では、むしろ情報の比重が上がっていることは明らかなのでしょう。にもかかわらず、マルクス主義が経済学の中に居座ったことで、例えば銀行の土地担保主義というものが正当化され、そしてそれがバブル経済の発生につながったと言えるのではないでしょうか。経済のサービス化に合わせてマルクス主義が情報を理論に組み込んでいれば、そのような悲劇は起きなかった可能性は十分にあります。誤った現状分析による理論が現実を歪めてしまった例として、バブル経済とその崩壊は経済学史上に刻まれ続けることになるでしょう。そのバブル崩壊からですらもはや三十年、一世代が経過しているのに、いまだにその大きな原因となったと言えるマルクス主義を後生大事に抱えているというのは一体どういう感覚なのか、現実を見る目というものを持っていないのか、と呆れるやら感心するやら。やはりマルクス主義はもはや社会科学というよりも宗教の域に達していると言えるのではないでしょうか。

サービス産業も多様化しすぎてしまって、もはや情報という一言で片付けられるような簡単な状況にはありません。私には、どう見てもマルクス主義が現実に則した理論構造に修正しうるようには見えないのですが、それでもマルクス主義を信じたいというのならば、せめてマルクスの時代にはそれほどまでには目立たなかったであろう金融サービスについてどう整理するのかくらいは考えてほしいところです。金融資本主義と言われるほどに資本主義の中心的要素となっている金融ですが、それは全て資本として整理しうるものなのでしょうか。為替は資本なのでしょうか。先物は資本なのでしょうか。一体資本とは何なのでしょうか。バランスシートで資本に計上されるもの、という解釈ならば、株式以外の金融商品で資本に区分されるものはほとんどなくなるでしょう。にもかかわらず、金融商品、サービスは全て資本である(と言っているのかどうかも知りませんが)、などという大雑把さで経済の分析が成り立つものなのでしょうか。そんなことならば、債務を拡張させれば資本は減るのだからマルクス的な労働分配率は高まる、みたいなことになってレバレッジを効かせた金融資本主義が正当化されるということにはならないのでしょうか。それが2000年代以降の金融危機の理論的背景となっているということはないのでしょうか。土地バブルに続いて金融危機の理論的背景になった、などということになれば、マルクス理論は経済にとって害悪しか撒き散らしていないのではないでしょうか。

もはや理論とも言い難いマルクス主義が徘徊する社会は不幸としか言えないと私は考えます。一刻も早い、この麻薬のようなマルクス主義を現実の経済社会から振り落とすことが必要なのではないでしょうか。(なんか書いているうちにどんどん過激な方向に進んでしまって、最初考えていたイメージとは違う展開になってしまったのですが、今回はこれで投稿することにします。)

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