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”壮大な歴史の体現者としての子ども”#毎日note604日目。

ベイビーを授かってから、子育て中の先輩ママから色々話を聞く機会が増えた。

今日も大学時代の親友で、5歳と3歳の男の子を育てるママと(次男くんのお昼寝タイムの合間に!!)オンラインランチをしながら話を聞いた。

同じママとパパのもとに生まれ、同じ環境で育っても興味の方向性や成長の進捗などが異なり、親の想像を超えるような成長を成している話を聞いて、持って生まれたその人自身のエネルギーというか、生きる意志というか、人間の可能性というものを強く感じた。


最近読んでいる『子育ての常識から自由になるレッスン』(高石恭子氏 著)の一説に、まさになことが書いてあったのを思い出した。

「歴史の体現者としての子ども」
子育ては、ただ目の前にいるわが子を現実に世話し、教育することだけではなく、うちなる子どもと再会し、その子とともに生きていくこころの作業でもあるということを、私たちはもっと大切に考えてみたほうがよいのではないかと思います。

内なる子どもは、たんに子ども時代の自分についての記憶ではなく、ひとりひとりがそれまでの人生のなかでつくりあげてきた主体的世界の像です。そこには何世代にもわたって連綿と引きつがれてきた親と子の関係や時代社会の文化が反映されており、目の前のわが子を理解するときの参照枠(基準)にもなるからです。

また、こうも言えます。たとえ生まれたての赤ちゃんであっても、初期化された新品のAIロボットとは異なります。ひとりの赤ちゃんには、父母の、さらにその父母や祖父母の、そして先祖の生きてきた痕跡が刻まれています。

DNAの継承と呼ぼうと、こころの世代間伝達と呼ぼうと、私の伝えたいことは同じです。ひとりの赤ちゃんには、突きつめると何億年のいのちの歴史が体現されており、その無限の組みあわせの帰結としての、生まれもった方向性(個性、あるいは唯一性)があらかじめ備わっているという事実です。

このような視点から子育てをみてみたとき、たとえわが子でも「育て方次第でコントロールできる」はずがないのは当然のこととして映ります。

しかしながら、現代を生きる私たちは、なぜか「私が」頑張れば子どもは成功するはず、うまくいかなければ「私が」頑張らなかったせい、と思い込んで罪悪感を抱え、子育てを息苦しいものにしていることが多い気がします。

わが子を自分が作りあげる作品のように見るのではなく、相手は壮大な歴史の体現者なのだと見れば、「私の」思い通りにならないことがあっても不安や腹立ちが和らぎ、敬意をもって臨むことができるのではないでしょうか。

子育ての常識から自由になるレッスン』より引用


わが子は、壮大な歴史の体現者。そう思っていると、心配や不安やうまくでいない罪悪感が薄まっていくのかもと思えた。

お腹のベイビー誕生予定日まであと19日。

壮大な歴史の体現者と出会える日を楽しみに一日一日を過ごしていきたい☆

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