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雨が降りそうで降らないお天気の下を歩きながら・・・

雨が降りそうで降らない・・・というギリギリのお天気のなか、お散歩をした。

一応、傘は持った。

しかし、わずかな日差しを期待して、家の外(軒下だけど)に洗濯物を干したままで出かけた。

もしも万が一、途中でザーザー降りになっても、すぐには家には戻れない・・・という非常にスリリングな状態でのお散歩。

何なんだ? この「イチか?バチか?」の賭け事のような散歩。そこまでして出かけたいのか?・・・とまぁ、こんなくだらないことを頭の中で自問自答しながらテクテク歩いた。

公園の紫陽花が咲いた。

昨年の花(枯れた花)も残った状態での満開。

所々に茶色い枯花があるので、見た目は決して美しいとは言えないのだけど、でも、私は綺麗だなぁ・・・と思う。個人的には、紫陽花は枯れた花も結構イケてて素敵だ・・・と感じている。

人間の肉体と同じ。

長いこと生きていれば、シワやシミは普通にできる。たるみや汚れだってある。でも、それらは、その人の「生きた」という証だ。

娑婆は綺麗事だけでない。汚れた世界や闇もある。

いろんな物を全部ひっくるめての「世界」なのだ。

梅雨になると、植物が生き生きと輝く。空気に含まれている湿度が、植物の細胞を潤すのだ。

植物が元気になると、昆虫も活発に動き出す。

植物も昆虫も、気温が上がり湿度が高まると、一気に命のエネルギーが満ちあふれ、圧倒的な存在感を放ってくる。

人間なんて、本当に小さなものだ。自然の中では、ほんの一片に過ぎない。

水が滔々と流れる。

花が咲く。

蝶がゆらゆらと飛ぶ。

鳥が囀る。

雲が流れる。

湿った重苦しい空気。すごく蒸し暑い。

自然は飄々としているのに、人間だけがこの気候に適応できない。

公園のなかを歩きながら、この世界を思う。

「雨に濡れてもいいや・・・」そう割り切れなくなったのは、一体、いつの頃からだろう。

子供の頃は、いつも雨の日は濡れていた。傘をさして歩いていても、気がつくと身体の何処かがいつも濡れていた。

むせるような雨の香り。

ベッタリと身体にまとわりつく湿り気。

カタツムリが這う紫陽花の葉。

雨に濡れるブロック塀。

歩きながら、いろんな風景を見てきたことに気がつく。

濡れてはいけない大切なものが増えてきた時から、雨の中を歩くことが苦痛になった。

大人になると、濡れないようにすることが第一になり、濡れないように生きることが大事だと思うようになる。

その頃から、私は雨の中を歩くのが億劫になった。そして、雨の日は歩かないと決めた。

途中で雨がぽつりぽつりと降り出した。

持っている傘を差す。

干してきた洗濯物が気になる自分を感じながら、「何を恐れている?別に濡れてもいいじゃないか。そんなことで誰もおまえを責めないよ。自分で自分を責めているだけじゃないか。濡れることは悪ではない。雨に遭うことを自分に許可しよう。」・・・そう自分自身に言い聞かせる。

そうだそうだ。雨に濡れる経験も、たまには必要だよ。

雨に濡れることも、ぐちゃぐちゃになることも、楽しんでみようではないか。

これからは「濡れても良いし、濡れなくてもいい」そんな自由な気持ちで生きていこう。

家につくまで、お天気は何とかギリギリもってくれた。

洗濯物を家の中に入れたところで、ザーと降り出した。

おぉ、ギリギリセーフ。

でも、次は、最初から雨の中を元気に歩いてみようと思う。

まだ幼かった頃に見た、雨の日の風景をを思い出しながら・・・。

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