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【写真日記】枝垂れ桜が咲く里へ~飛騨朝日・桜紀行~

2021年4月11日、日曜日。朝から青空が広がる良いお天気だけど、空気は凛と冷えていた。久しぶりの放射冷却。

日中は気温が上がったものの、羽織ものが一枚欲しい気温だ。そんな花冷えの清々しい空気の中でも、我が家の周りの桜たちは、生き生きと元気に咲いている。

午後から何をしようかな…と考えていたら、お昼ごはんが済む頃、夫が「枝垂れ桜を見に行こうか」と言い出した。

「そうだなぁ、良いお天気だし、せっかくだから見に行ってこよう。」

そう答えて、急遽、私たちは桜を見に出かけることとなった。

簡単に準備をして、車に乗り込んだ。

向かった先は、「飛騨朝日」(岐阜県 高山市 朝日町)。今は高山市に合併されて朝日町と呼ばれているが、15年前までは朝日村という村だった。御嶽山と乗鞍岳のふもとにある自然豊かな地区である。

この町には、たくさんの枝垂れ桜があり、春になると至る所で優美な花を咲かせる。今、ちょうど里の枝垂れ桜が一斉に咲き始め、とても美しいと噂で聞いた。そこで、私たちは、この町に向かうことにした。

高山市街地から車で約15分。市街地にいたときは遠くに感じた乗鞍岳が、朝日町に近づくにしたがって、どんどん近く大きく見えてくる。

(車の助手席からパチリ。正面奥に見えるのが乗鞍岳)

この道を直進して、飛騨川を渡る。

車は、いよいよ朝日町に入った。

薬師堂の枝垂れ桜

まず最初に見えてきたのが、薬師堂の枝垂れ桜だ。

とても立派な枝垂れ桜で、道路沿いにせり出すように立っているため、この道を通る車は、美しい桜の下を潜り抜けなくてはいけない。

この薬師堂の桜は、私も以前この道を車で通ったとき何度も見ているので、前から良く知っている桜だ。でも、いつも車で素通りしていくだけで、こうして立ち止り、じっくり見た経験はまだ無かった。

(薬師堂の枝垂れ桜。桜の左側奥に見えるのが乗鞍岳)

近くに車を止めて、枝垂れ桜を正面から眺める。

こうしてみると、堂々としていて力強さを感じる。人間で例えると「長老」という風情だ。改めてみると、本当に美しい。古木だけど、命のエネルギーがほとばしっている。

この桜の奥に薬師堂があった。小さいながらも立派な建物である。

…と、ここでふと、横にある表札や説明書きを見て驚いた。なんと、このお堂に安置されてある仏さまは、円空さまが彫った仏像らしい。

円空とは、江戸時代の修験僧・仏師。たくさんの仏像を彫り、全国各地に彼が作った仏様が残されている。(ちなみに円空さんは、飛騨では今も大人から子供までみんなが知っている有名な僧だ。)

調べたみたら、円空はここ朝日町の12か所に24体の仏像を残しているそうで、仏像に記された銘により、これらの仏像は彼の晩年の作ではないか…とのこと。

まさか、ここで円空さまに会えるとは…。不思議なものを感じながら、手を合わせてお参りをした。

また車に乗り込み、次の桜へと向かう。

浅井神明神社の枝垂れ桜

次の桜へと向かう道中、夫はしきりと「次に行く枝垂れ桜は、すごく優美できれいで素晴らしいよ」と褒めちぎっていた。夫は見たことがあるらしい。

ここから先の桜は、私は未体験。とても楽しみだ。

山伝いの道を走り、やがて集落に出た。

「あっ、ここだ。」

そう言って夫は車を止める。

小さな集落の山すそに鎮座する、里の神社。浅井神明神社と言うらしい。

参道を歩いて社へと向かう。

「あれだよ。」と言われて、視線を向けたその先に、美しい桜が立っていた。

鳥居の右にあるのが、浅井神明神社の枝垂れ桜。朝日町に数ある枝垂れ桜の中で、一番大きいものだそうな。

近くに寄ると、あまりの大きさに圧倒された。桜の下に立つと、枝に囲まれ飲み込まれるような迫力を感じた。

先ほどの薬師堂の枝垂れ桜が「長老」ならば、この浅井の枝垂れ桜は「山姥桜」という感じ。それも美しく品よく老いた姥女のような雰囲気。妖艶さもあり、色気もある。

この桜はこの場所に長く鎮座し、里の人々の暮らしを見守り続けたのだろう。

ちなみに、この神社の御神体も、円空が彫った神像。円空のエネルギーがこもった神像もまた、この里を長く見守り続けたのだ。

青屋神明神社の枝垂れ桜

浅井の桜に別れを告げて、次は青屋神明神社の枝垂れ桜に向かった。

この青屋神明神社の枝垂れ桜は、神社の前にある田んぼ(まだ田植え前の、水が張られた状態の田んぼ)が鏡となって水面に桜が映り、幽玄な景色が楽しめる…ということで、写真愛好家の間では超人気のスポットだ。

私も、テレビや新聞その他のメディアで、ここの桜を見たことがある。でも、実物を目にするのは、この日が初めてだった。

神社の横の駐車場に車を止めて、桜へと向かう。

これが、あの有名な「青屋の枝垂れ桜」か…。

この桜もとても大きい。下を歩く人がすっぽり覆われる。

桜の下に入ってみた。

そっと包み込まれているような温かさを感じる。

田んぼの向こう側で、お婆ちゃん三人組が飛騨弁で楽しそうにお喋りしていた。多分、この集落に住んでいるお婆ちゃんだ。桜を見に来たのだろう。

狛犬が笑う。

この神社の御神体も、円空さまの神像だった。

この地に留まり仏像や神像を彫った円空。彼もこの桜を見たのだろうか。

駐車場の脇にあるこの枝垂れ桜も、非常に立派だった。

青屋の枝垂れ桜も、他の枝垂れ桜と同様、小さな集落の鄙びた場所に根付いている一本でしかない。しかし私は、何故かこの木(以下「彼女」と擬人化しておく)からは、凛とした気高さ、高貴なエネルギーを感じた。

彼女の「水面に映る幻想的な美しい姿」に、毎年多くの人が魅せられて、たくさんの人が彼女を見るためにここを訪れる。そんな人間たちに、彼女は臆することなく堂々と、自分を晒して見せ、人々を楽しませ、心和ませる。それも和気あいあいと自由に、そして明るく。自分の使命を自覚しているもの特有の「潔さ」と「芯の強さ」と「美しさ」を湛えながら…。

神社の社にお参りをして、もう一度、田んぼの前にある枝垂れ桜を眺めた。

風にやさしく揺れる様が、可憐で優美で美しかった。

枝垂れ桜の里で、桜を想う

他にも、美しい枝垂れ桜があるようだけど、今回、私たちはこの三本の枝垂れ桜を観賞した。

車で通りすぎる道沿いにも、小さな枝垂れ桜から、名もなき祠の横に立つ大きな枝垂れ桜、お寺の境内にある立派な枝垂れ桜…等々、様々な桜を見かけた。

根付いた場所でただ一心に咲いている桜たち。自然の中で、自然の営みをただ繰り返しているだけなのに、そこに尊く崇高なものを感じる。

桜って本当にすごい。

いつまでも、命尽きて倒れるまで、延々と咲き続けるのだ。

幾年も、幾年も。

人が生まれ、生き、死んでいく様を何世代も幾重に渡ってそっと見守り見届けながら、桜はこの里で生き続けているのだ。

そんな桜が今年も咲いた。

私たちの命の輝きをそっと受け止めながら…。

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