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ともし火 -彼女-

いつもと違う道を歩けば違う世界へ行ける気がして、仕事帰りの道をちょっとずつ変えてみた。
でも考えは混沌として小さな光さえも見つけられない。
「なんでいつもこうなんだろう」
恋愛だけじゃない。仕事も同じ。
いいところまで来たな、という場面で邪魔が入ったり、呆気なく奪われてしまう。また同じだ。
人生に付きまとう残念な結末。
「思いきってあのBARにでも行ってみようか…」
1人で入るのは気が引けたが、せっかくいいお店を知っているんだからと立ち寄った。
半地下にあるそのBARは今日も静かにお客を待っていた。

ジンフィズを頼んで、少し待つ。
秋になってもまだ暖かい。皆、背広の上着を脱いで寛いでいた。
カップルがいなくて救われた気持ちになった。
お香がほんのり漂っている。
「広島では夕凪といって、風がない時間があるんだ。暑い夏の夕方に大気の入れ替りの関係でね…」
そんなことを話していた彼の横顔とグラスを触る指が思い出された。
不意に涙が込み上げたとき、オーダーしたジンフィズが目の前に置かれた。
美しいグラスに入ったそれは睫毛についた涙でますます輝いて見えた。

「先日はいい時間を過ごせましたか?」
バーテンダーは私の目をじっとみて問いかけた。
「覚えていてくださったんですね、あの日のこと」
「夕凪について彼が語っていたのを覚えていて。」
「私も今その事を思い出していました。いい時間、過ごせましたよ。」
「そうですか、なによりです。お二人でまたいらしてください。」
バーテンダーはその言葉に私の表情が曇ったのを見逃さなかった。
何か言おうとしていたのを私が遮った。
「彼、他の子に呆気なく取られちゃいました。好きだったんだけどな、結構。」
意外にも素直な気持ちが口から出てきた。
ぽつりぽつりとその後のことを話していると
自分がなぜ今日ここに来たのかがわかってきた。
これ以上時間が経ってしまうともうこのBarには入れなくなってしまいそうだったのだ…最後の思い出には美しすぎた。
あの日、私の心に特別な煌めきがなければここへ寄るのはもっと後でも…むしろその方がよかったかもしれないが、行き場がなくなって自分のなかに閉じ込めたその煌めきは、空虚な自分のなかから出たがっているようだった。そして自分のなかにあるのに自分のものではないような異物となって私を苦しめていた。
誰にも話せなかった純粋な好きという気持ち。
このまま心に灯った小さな煌めきが、ただ消えていくのが惜しかった。
かわいそうだった。

「よかったら、一杯サービスさせていただきます。何がいいですか」
バーテンダーは戸惑っている私にメニューを差し出した。
「いえ、一杯だけ、というつもりで来たので…お気持ちだけで…ありがとうございます。」
と、断りかけてふと魔が差した。
「あの人のこと、覚えてますか?
もし覚えていたら、彼に今の一杯差し上げていただけませんか?以前一緒に来店されたお連れさまからです、と。
きっと彼来ると思うんです。このお店をとても気に入っていたので。…彼女と来ちゃうかもしれないけれど。」
自分は何を言っているんだろう?人を巻き込んでるじゃないか。と反省して謝った。
「覚えていますよ。彼のことも、今日の約束も。」
バーテンダーは私の目をじっとみて言った。

外に出るとわざと早歩きをした。
このスピードだ。自分らしくすいすいと歩くと涼しい風が吹き始めたのがわかった。
夕凪の時が終わったのかもしれない。と思った。
なるほど。風がなかったから道に迷ってしまったのか。

仕事しか頭にない日々を過ごしてきた自分にとって、風のない夕凪の時間は必要だった。でももう行かねば。
熱い大気が留まり自分を包み込むイメージが浮かんだ。ここに留まれない。
心に宿った煌めきはあのBarに預けてきたし、今度は旅のお土産を持っていこう。

#恋愛   #小説  


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