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朝井リョウ 著 『どうしても生きてる』を読んで これから先 どう歩いていいかわからなくなったら……(前編)

最初 物語を追うのも

しんどすぎて どんよりした。
朝井リョウ著   『どうしても生きてる』

読み終えたのは
去年の年末だか
自粛の中 時間があるので 再読したら、どこか1面的な捉え方しか出来ていなくて 物語を消化していて、また違ったアングルで 読み溶けた気がするので、今回は

その 「違った」 をつらつら垂れ流してみる。

なんか、傷の傷を抉るようなこの感覚は、 書く前の傷と公開の痕 で書いた痕に 引きずりこまれてているようで、とにかく 手が進まなくなってる。 (前編 後編に分けた理由)  

後編は、前編散らかった問の答えを捻り出します!(ひやひや してる)


僕が 朝井リョウの作品を初めて
触れたのは
監督 吉田大八 作『桐島、部活やめるってよ』 

を 大阪 なんばのパークスシネマで 当時の彼女と見て、けしてめちゃくちゃ面白かったねとは言えないあのあるあるの空気とあの学校の屋上の衝撃的なラストシーンの空気と 合い重なり、(その後のプラン等事情他で 余裕がなかったのもあるが)
何かたいして 琴線に触れずに 通り過ぎて言った苦味の断片の記憶を朝井リョウと言えば あれがあったなぁと拾い集めて 記憶の棚の奥底にしまいこんでいた。

そんな若かりし トラウマ的な記憶と 僕の中の朝井リョウの作品は、かなり結びついているし、年々 朝井リョウと言う自分の中の作家性と 自分のどこかアイロニカルな冷食した目線と 自分の自分探し物語は、近くなったのかなと、耽る一方で こうして言語化する際の描写 すなわち 描かれていない外側の 世界も色濃く見えてくる。

以前書いた わからないものをそのままにしたくない 瞬間的な内面の部分は、まさしく 朝井リョウに無意識にコントロールされている事も書きながら自意識の檻を実感する瞬間だ。

作品をいつ再読するかは、その人にとっては
大事なことではあるが
でも、それよりもいつ 再読しても記憶を風化させないことは、結構価値のある瞬間であると思う。そんな作品 にこの先 いくつ出会えるだろう。

話が逸れた。

『桐島、部活やめるってよ』を読んだのは、その数年後…(Theモラトリアム期)
原作はオムニバス形式で映画とは随分印象が違って

色々と 解釈があると思うので
今回は、省略するが、
映画の印象として僕の中で何か 学生もの =桐島

桐島は高校生の話しだが、学生生活の物語 の基準として
ずっとあるのは、好きなこと やりたいこと 熱があること 側が 何かおかしいと言われる同調圧力の中 持つものと持たざる者たちの対比と目線 と日本の階層構造とか秩序みたなものを意識的に僕に強く植え付け続けている、、、

映画の中の何に対しても意味を求めたり、虚無だったりしていたヒロキ (役 東出昌大の現在地も)は、あの後 どーなったのだろうか、、、、

じつぞん、、、とは
桐島とは、誰だったのだろうか、、、などなど

と未だに 回顧するし
この目線もまた虚無だったりもする。

そこから『何者 』『時をかけるゆとり』『世にも奇妙な君物語』『もういちど生まれる』『死にがいを求めて生きているの』他と
僕が触れた作品が あるがボリュームがありすぎるのでまたいつか、、、接続しようかな、、、

特に『もういちど生まれる』の世界は 全編優しくて 何度も読みたくなる。

そして 今作は、、、

タイトルが強烈な 『どうしても生きてる』


僕と朝井リョウ作品 主に作品の中の主人公 と それ以外の視点 を どこかで投影と 諦めを持ちながら、時間とともに、覚悟と折り合いをゆっくりつけてく。覚悟とは ここで言い換えると 情熱とかエネルギーのはなしで、なにかを書くエネルギーを維持することと、どう書くと伝わるのかって両輪を抱えながら息することは しんどいし不安なことなのだということを僕は知っているからだ。(なぜならnoteの言葉の世界と情報の地脈みたいな道をミクロ的にアクセスしたから)こうした自分が懸けた時間と歩いてきた道は直線的ではなくとも 迷いながらもどこかに出口があり背景には物語とか時代の背景があるんだけど その文脈上は全部繋がっているものなのかな。(大きすぎるはなし)

これだ!と

なんでわかるの〜って

感覚が朝井リョウ作品には 散りばめられている。

今作の主人公たち視点のアングルとそれ以外の多角的視点 と理不尽を伴う現実世界は、これから生きてく上で僕らが向き合わないといけない 悲愴と安堵の連続した生きづらさのリアルタイム世界の中 無視できないリアルな感情を 非条理な情景と共鳴として 差し出してくる、、、


どうしたら、救われるのだろうか?


そんな究極的な生きづらさの問を 映し出して物語には、

最終 光は、差さないと僕は受け取ってしまった。。。

生きてくのはしんどい。
でも、今を無駄にしたくない。の保留中。

惰性的に生きてる自分と
周りは前進し、自分だけ時間が進まず
でも、後戻りは出来ない実存だけが残ってく…
前を向いていいのかもわからないまま、、、

特に 流転は、

過ぎ去っていった 記憶の巻き戻しと 残された時間の巻き戻しの中で 時間軸をずらしながら 20代〜40代にかけて一人の男性的な生き方を追認していくことをカタルシスに 歩いてきた道を懺悔する姿を淡々に描いている。大学時代 瀬古と豊川二人で漫画を書く夢を描いた 持つ者と持たざる者の2人を対象的に 様々な理由により夢を破れた側の豊川の視点の人生を 中心に 物語は進む。最初は節々バクマンだなぁと思いながら読んだ。あとは 辻村深月著『スロウハイツの神様』かなぁ、、とか。

最初この章読んだ時 、豊川の物語は、かつて抱いた根本の自己顕示を他者からの承認とともに
探しながら、それでも自己完結で
何も無い生活を消費し失って後悔しながらも
自分の歩いてきた道とみっともない自分の不器用さのその先 を描いてると。

社会に溶け込み、柵の中、つらくても 

タイトル通り どうしても生きていく、、、

それは、読者、いま読んでいる君の事だろうと結論づけていた。 


ただ、読み返してると、ストーリー自体とその結論は
究極的に後味が悪すぎる…どうも背景とか前提から深みにリーチ 到達していかない…消化不良で どうもスッキリはしない、、、

物語の後半 カウントダウンフェスの回想シーンで

ライブ音楽の消費と時代と社会の流れ 流行り廃り 評価軸の多様性の価値とか情報格差問題(いつか機会があれば書きたい)とか自分の中 内面にある物差し 尺度を歩いているうちに誰だって 歩いてきた分それが自尊心に移り変わり凝り固まる。しかしその物差しは、言葉を持つものも持たざるものもいつか偏見とかバイアスで物事(人)を決めてかかるのではなく、それは変動性のあるものなのではと緩く示している。

生きていくために、直線は曲線になる。

この章で 特に印象的な
この線の内面かつ多角的なイメージが
非常に文学寄りで、僕には最初簡単には、
描写出来なかった。 

直線⇒曲線と表現したどこかポップさもある表現力と意味を咀嚼、解剖して具現化するために色々筋トレしたのだが、体力問題や大きすぎる普遍性の壁に悪戦苦闘していた。。。

この壁はあの時と同じだ。とデジャブかとフラッシュバックする。

出来なかった自分から逃げなければのIfの自責の連続に 立ち止まる瞬間。

変わりゆくものに自分を託してはいけない。だけど、変わらないものに自分を託し続けることができる人は、そうしていられる自分の奇跡的な幸福に気づかない。

過去の後ろめたさを見つめ自分を裏切り続ける歴史を歩み続ける豊川の目線は 非条理に映る読者の目線=リアリティの悲哀の温度 を刺しだしてくる。

自分が今まで歩いてきた歴史という点が 曲線になる…

どこかで繋がる漠然と…

表現という線引きで、、、

そして 多面的な立体物として僕ら読者は、存在しているし、それが作家と読者の関係性だろう。
今も歴史の目撃者として、自分の物語を観測するのだ。そして 未来の自分( ) のために遺す。こーして、記録者として。言葉を持つものは、文学として。

何もかもが巡り、変わりゆく中で、唯一、誰にも曲げられず、何にも奪われないもの。それは、その人自身が築き上げた歴史と、そこから手に入れた技術だ。その人が築いた歴史がその人に宿す技術は、誰にも奪われず何にも削られず、どこまでも伸び、どこにでも届く。文化も国境も時代も社会も、誰も何も操ることができない弾道で。 

物語が進んでいく 小さな点のストーリーがあって その言葉の積み重ねで、
時間軸(歴史)の 区分してく。若い頃は みんなの憧れる輝かしい直線のままで階段を登り、道を歩き続けられると信じていた。
でも誰しも逸れるのだ。

逸れた先に 宿るのは その人の 歴史(描写or表現) で歳を重ねるにつれて、少しずつその歴史を認識し始めて、その侘び寂びを感じながら、抱えながら、それでも、終着をさせるために 歩き方(技術)を覚えていくのかもしれない。線とは、自分を定義していく成熟の道のことなのだ。無理に断ち切る必要も本当のこと描く必要もない。充実した人生を送るには 時間がかかる。確固たる自信も必要がないと言われているような救いの世界が必ずある。その道をゆっくり歩きたい。

線のイメージがようやく繋がった!

歩き方はこのnoteを書き出してから抱えてているテーマで

時間軸上の線のイメージでは、こうした違国の日記の歩き方を試行錯誤中なわけです。

(主にヤマシタトモコ著 『違国日記』1巻で槙生が日記を勧めるシーンで灯台と表現したのは朝ちゃんへの光(希望)なのだ。対象的な孤独は砂漠というだだっ広い居場所のイメージとして描かれている)違国日記に関しては、書き出すと止まらなくなるからこのへんで(妄想乙)

線の話にもどろう。

変わりゆく世界の軌跡が曲線ならば、自分の中にある物差しを変えない人々の歴史は直線だ。確固たる世界があり、そこに時代のアイコンが代わる代わる出入りしているのではない。直線の歴史に、曲線の世界のほうが絡まるのだ。 
そんな歴史を築くことが出来た人にだけ、宿る光がある。

最終的に 豊川は傍観者のまま歩く選択をした。宿る光により添えなかった、、、どちらのみちでも 傷つくのだ、、、

これから何をしても、後ろめたくても曲線でも宿る物はあるのか。線を引く居場所も僕にはあるのか。

自分で作った道の上の壁、自己完結の壁に 自分は
越えられないのだろうか。くぐり抜けるのだろうか。

何か作品について、自分の好きな作品 作家に関して

noteの世界で書く怖さもあるし 

今回再読した傷 『桐島、部活やめるってよ』を

大人になっても読み直すことがしんどい 苦しい正体はなんなのか。

今もなお、僕は中途半端な宏樹のままなのか。

一番怖かった。
本気でやって、何もできない自分を知ることが。

この逃げ道を僕はずっと歩いていた気がする、、、これは僕の傷跡だ。桐島の中で植え付けられた普通からはみ出たモノへの同調圧力とその空気に対する不安と生きづらさの孤独の傷、、、


孤独を理解することは、同じく孤独を知る者でしかない。


孤独という傷を抱えたものの寄り添い方や

なにか作品を通して 苦しさの承認延命を施していくことに慣れていくことや
書くことで内面性が規定されてしまうある種暴力の世界に生きなきゃと
想像すると、少し恐くもあり その無意味な自意識に臆病になり過ぎて 優しかったはずの世界を暴力と表現する僕の自意識も またそれは、オモテウラの壁になるのだとも思うわけで、、、

では 

書かなくて良くね?の 問題は ウラ側の希望の光となるのか。


本書の帯 是枝監督の 言葉が染みる。


あの時わたしは
こんな絶望と幸せの手前で生きざるを得なかった。
10年後に 『どうしても生きてる』を読み返しながら、きっとそう思うに違いない。



区切りとして、僕はきっと自分の言葉を読み返すだろう。



生きづらさの檻の中問題の解消と自意識の普遍性の壁問題については後編 


光は差すのか、、、

(エンドが空白過ぎて

バッドエンドも 十分 or  充分 ありえるルートなわけで)



後編へ (続く、、、、、。)

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