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あなたの善意が悪意にならないために

いつもと変わらない仕事の帰り道。
スマホで韓ドラを見ながら電車に乗っていた。

そして、電車がそろそろ駅につこうとする矢先、どこからともなくある一人の男性が急に大衆に向かって声を放った。

「みなさん、コロナワクチンは本当に危ないです。絶対に打たないでください。もし、一度打った人がいるなら、2度目は打つのをやめてください。お願いです。」

電車が次の駅に到着する1分前くらいだったろうか。
いきなり大きな声で叫ぶわけでもなく、ひっそりと落ち着いた、冷静なその声の震源地に周囲の目や耳が集まった。

自分はあまりにも唐突すぎて見向きもできなかった。自分が座っているすぐ近くの優先席から聞こえたのだが、降りる時には誰がその声を発したのかまったく検討がつかなかった。
それくらい、その人は落ち着いて人々に言葉を放ったのだ。

最近、ニュースで毎日コロナのワクチン接種回数が上昇している反面、SNSやメッセンジャーアプリではワクチンの危険性を訴える人のツイートや情報が目に入ってくる。

ワクチン開発の背景やワクチンを打った人の副反応など様々な写真や情報先のリンクが入ったPDFまで友人のLINEグループで回ってきたほどだ。

わたしはまだワクチンを打っていないが、妻は医療従事者なのでワクチン接種済み。このPDFをもらったわたしは戸惑いを隠せなかった。

別にワクチンが危険だとか安全だとかそういう話をしたいのではない。

電車でまったく知らない人に声を放った男性もしかり、友人を思ってLINEグループにPDFを送ってきた人も、おそらく相手を思う善意からの行動だったかもしれない(悪意を持つ人もいるとは思うが)

しかし、この善意といったものが果たして相手に善意として受け止められるのかは決められない。ワクチンが危険だという情報にとらわれて恐怖を感じる人もいるかもしれない。

そもそも妻のように医療従事者として働き、そのためにワクチンを打っているのに、そのような情報が回ってきたらこれが善意と言えるだろうか。

もし、あの電車内にわたしが医療従事者の妻と一緒にいたなら、妻の胸はしめつけられていたかもしれない。情報を受け止め、それを判断するのは個人の自由だから、善意をどう受け止めるのかも自分次第と言うことは簡単かもしれない。

しかし、わたしが考えるのは、善意というものは、不特定多数に向けられるとき、それは善意になりうるのには程遠いということ。

善意は個人に対して向けられるべきもので、決して不特定多数の人、大衆に向けられるものではないと思う。あくまでも個人との関係においてとどめるべきものではないだろうか。

もちろん個人においても善意が必ずしも相手に善意と受け止められるわけではない。しかし、万が一、誤解をまねいたとしても、まだお互いに話ができる。その言葉に対して何かしらのアクションを起こし、責任をとることもできるのではないだろうか。

しかし、その善意が不特定多数に多数に向けられた時、そのようにはいかない。
次の到着駅までの1分が1時間のように長く感じられた電車の雰囲気のように、良かれと思って発せられた言葉は人々の心を乱し、混乱を生んだかもしれない。

良かれと思って発した男性の意図とは逆に、ある人にとってはそれが救いのメッセージではなく脅迫のように聞こえたかもしれない。

別にその話をした人が解決できる問題でもなく、それを聞いた人に何の働きかけもできるわけではない。そう、自分の言葉に責任を持てないのであれば、それは善意にはなりえない。

自分が善意で発する言葉、伝える情報があるのであれば、それを相手にちゃんと説明し、それを受け取る相手の気持ちまで考えること。

その相手の気持ちに向き合う勇気と覚悟があるのであれば、まだ善意として受け止められる余地はある。

わたしの善意が悪意にならないために。
あなたの善意が悪意にならないために。

様々な困難と混乱を抱えている社会だからこそ、人への思いやりや善意といったものがしっかりと伝わる努力を惜しまないように。

誰かへの攻撃でもなく、自分自身への戒めとして。
何かに惑わされることなく1日1日を大切に過ごしていきたい。

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