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「パーフェクトデイズ」足るを知る暮らしと、世界が驚く日本のトイレ

名匠ヴィム・ヴェンダース監督が、役所広司を主演に、トイレ清掃員の男が送る日々を描いたドラマ「パーフェクトデイズ
 
2023年カンヌ国際映画祭コンペティション部門で、役所広司が日本人俳優としては柳楽優弥以来19年ぶり2人目となる男優賞を受賞。
アカデミー賞の外国語映画賞にもノミネートされています。
アメリカでも高い評価を受けている今作ですが、アメリカでの受けとめられかたも含めてレビューしていきましょう〜!


足るを知る暮らしかたが美しい

結論からいえば、わたしとしては非常に感銘を受けました。
ことに最後の数分間は、ちょっと他にないほど胸をつかまれる、長く記憶に残るシーンでした。

なにより主人公の生き方に憧れる、映像で描いた詩のような映画です。
 
さて、設定から説明すると、役所広司さんが演じる主人公の平山さんは、トイレ掃除人です。
渋谷区に設置された著名建築家によるデザイナーズトイレの掃除を日々請けおっています。
 
朝早く起きて、ルーティンの支度をして、植木の世話をする。
車を運転しながら聴くのは、昔から好きなミュージシャンのカセットテープで、音楽もルー・リードやパティ・スミス、ヴァン・モリソンなど。
フィルムのカメラで木漏れ日の写真を撮る。
古本屋で、一冊ずつ本を求める。
部屋には必要最低限の家財しかなく、掃除が行き届いている。
銭湯に通い、好みの酒場で一杯やる。
月イチでステキなママのいる店に行く。
 
平山さんはスマホも見ないし、YOUTUBEも見ない、パチンコ屋にも行かないし、読み放題マンガも見ない。
SNSをして、「後輩のデートのためにお金を貸した、でも返してくれるか疑問ナウ」とか呟かないし、酎ハイの写真を撮ってストーリーにアップしたりもしない。
 
これはもう聖人でしょう。
日々の生活を丁寧に生きて、「足るを知る」暮らし。
多くのことを求めず、今に生きる。
必要以上のものを求めない。
 
現代人の多くが心の底で憧れる生活ではないでしょうか。


欧米のクリティックも絶賛、映像の詩

アメリカのメディアでも絶賛されています。
批評家によるトマトメーターは、96% 観客のスコアは93%と、ほぼ最高点!
 
これはすごいよ。
鳴り物入りの『マダムウェブ』なんて批評家のメーター12% (涙)ですからね。
評価もちょっと見ていきましょう!
 
“One of the loveliest movies of the year.”
「今年、もっとも愛すべき映画のひとつ」
デイリービースト誌
 
“A masterclass in slow cinema”
スローシネマのマスタークラス(上級特別レッスン)」
ガーディアン誌
 
“A gently Astonishing film about finding joy in everyday life.”
「日常に喜びを見出す、やさしくて、驚きに満ちた映画」
タイム誌
 
“Wim Wenders is one of Cinema’s great poetic.”
「ヴィム・ヴェンダースは、映画界の偉大な詩人だ」
LAタイムズ誌
 
“A poem of extraordinary subtlety and beauty.”
「なみはずれた繊細さと美しさを備えた詩」
ヴォックス
 
“Yakusho’s performance is a marvel of openness”
「役所の演技は、あけっぴろげで、驚嘆に価する」
タイム誌
 
たぶん観た方は、うなずける批評では。
アカデミー賞では外国語映画部門賞にノミネートされていますが、ぜひとも賞をとってもらいたいところです。
 

アメリカのトイレは汚い

じつはアメリカ人の夫ピタローは、この映画を見る時に、
「えええ、ジャニター(掃除人)の話なの?」
という塩反応だったんですよ。
「トイレの掃除なんて、映画で観たいか〜?」
となにやら乗り気でない態度。
 
ぬーん、さすがアメリカンだね、きみは。
わかっていないね、トイレに神さまがいることを。
 
実際、アメリカではジャニターというのは、かなり底辺ワークで、他に仕事がないひとが選ぶような印象であるわけです。
 
かつてはアメリカの高いレストランやクラブでは、トイレ番というのがいて、トイレに来た客からチップをもらうという職業がなりたっていたのですね。
手を洗えば、手拭きの紙を渡してくれて、女性用トイレだと、さまざまな化粧直し用品も揃っていた。
 
ところが今では、その職業はニューヨークでも崩壊。
なぜなら、スマホ普及のために、現金を持ち歩く客が激減していて、チップ用の小銭がない客たちが多数になっているからです。
 
おかげで高級クラブやレストランや劇場にあった、おトイレ掃除人つきのトイレじたいも激減しています。
 
今や高級レストランでもメンズ、ウィメンズをわけないで、「オールジェンダー」(誰でもオーケイ)なトイレが増えているくらい。
 
それでもニューヨークできれいなトイレを探すとなると、やはりホテルか、高級レストラン、そして最近では商業モールくらいでしょうか。
 
ちなみに、わたし自身はニューヨークのスタバではトイレに行きません。
その理由が汚いからー!(涙)
 
なんでこんなにも公共心がないものか、と腹立ったことが何度あるか(怒)
 
でも一般的なアメリカ人の職業感覚でいえば、バリスタで雇われた人間は、トイレ掃除をするために雇われたわけではない、ということなんですね。
 
ニューヨークでも日系のカフェだと、トイレにシフト表が貼ってあって、誰々が何時に掃除したというチェック欄がある。交代で掃除しているのだろうな、とわかる。
 
あとカフェで飲み物を買えば、レシートに番号が書いてあって、その番号を打ちこんでトイレに入れるというシステムも多いです。飲み物買わないヤツは入るな、という掟ね。
 
一方、誰でも入れるカフェのトイレはもうカオス、公園のトイレ、公共トイレなんてなるべく使いたくはないよね、というレベルです。
 
それに比べて、平山さんの掃除の仕方が徹底していること。
まさに「掃除道」ともいうべき、完璧さ。
 
そしてトイレじたいが近未来的すぎる!
 


もともとがこの渋谷区のトイレを描くためのプロジェクトということで、建築家によるデザイナーズトイレもすごすぎる!
「あんなの、日本しかない!」
と、ピタローは驚愕していました。

トイレに神さまがいる日本

日本では学校で、掃除の時間があるのは、良いところだと思います。
アメリカでは、ジャニターという用務員さんが、学校の掃除を担うために、自分たちで掃除をするという感覚が育たない。
 
清潔さに対する希求。
日々の職業に対するロイヤルティ
 
日本ではむしろ日々のルーティンワークやブルーカラーの人たちの職業倫理観がとても高いんですよね。これは世界でもめずらしい現象。
 
トイレに神さまがいる国は、世界でも日本以外に、まずないはず。
そしてそれはすばらしいこと。
 
いや、それが信仰となっていて、「新入社員はトイレ掃除から!」みたいな押しつけがあれば間違っているし、トイレ掃除したからって仕事ができるようになるわけではないのでナンセンスだと思うけれど、個人がトイレを清潔に保とうとするぶんには、非常によいこと。
 
わたしは小学校のときに、なぜかトイレ掃除に目覚めたことがあって、放課後勝手にトイレ掃除をしていたのですが、まったく美人にもなんにもならなかったよね。おい!
 


65歳で平山さんになりたければ、今なったほうがいい

さて、この映画、20〜30代の人が観れば、
「ああ、自分も65歳になった時にああなりたい」
と思うかもしれません。
 
理想的な老後に見える、平山さんの暮らし。
なんだけどー!
いやいや、ごめんね、今そうでなかったら、65歳でもそうならないよ。
現在の自分の延長上にいるのが、未来の自分だからね。
 
平山さんだってトイレ掃除人になってから、いきなり読書を始めたわけではない。
 
リタイアして時間ができるようになったら、読書習慣が身につくというものではなくて、若い時から読書しているから、年取っても続けられるのです。
 
音楽の趣味も、中年から開花したわけではなくて、昔から好きな音楽を自分なりに探して聞いてきたから今がある。
 
20代の方が観たなら、
「ああ、自分も60歳になったら、こういう欲のない生活をしてみたい」
と思うかもしれない。
 
でも現実の60歳は違いますからね。
フツーにマンガ読んだり、ネトフリ観たり、欲だらけ。
 
60歳になったら、いきなり聖人になるというわけではなく、今の生活の延長に、平山さんライフはあるはずです。
 
そして平山さんはもとからそういうインテリな平本さんであるものの、人生の途中で職業をスイッチしたらしいこともわかります。

高等労働者である平山さん

平山さんのバックグランドは、どうも名家の出身らしい。
妹さんが高級車に乗り、高齢の父親はかつて企業の経営者をやっていたような感じだし、ご本人もかつては有能なビジネスマンだったのではないでしょうか。
 
彼が持っているのはガラケーなので、スマホに切り替わる2015年くらいに、仕事をチェンジしているかと思われます。
 
平山さんは会話が苦手だけれど、かつていい仕事に就き、あれだけのルックスをしていたら、妻がいたかもしれない可能性もある。
 
そして資本主義の保守本流、エリートのトップに立つ父親とは、人生観が合わなかったのかもしれないし、そこで衝突していたのかもしれない。
 
それが、ある日、今までの生活を捨てて、地位も財産も肩書きも捨て、持たざるものとなってトイレ掃除人という日々の労働者となったのかと推察できる。
 
これは、そもそも掃除人しか職業の選択がなかった、同僚のタカシくんとは、かなり違うと思うのですね。

アメリカ人は辺境に旅をする、日本人は庵を結ぶ

ちょうど西行のように、平山さんはすべてを捨てて、アパートに庵を結ぶようになったらしい。
日本人の精神風土にある憧れが、この「庵を結ぶ」ことではないでしょうか。
 
西行のように出家して世俗を離れたり、あるいは鴨長明の「方丈記」のように庵をむすんだりというのは、昔から憧れられる境地では。
 
もしアメリカでなら、たとえばアップルやGoogleやAmazonに勤めていた幹部クラスの人間が、いきなり職を捨てて、ニューヨークでトイレ掃除人として生きる、そんな映画がなりたつのか。
 
いや、あり得ないよね。
もし今までの生活を捨てて、最小限で生きるとなったら、アメリカ人の理想としては、大自然に向かうと思うんですよ。
 
アメリカ人にとっては幌馬車の時代から、モービリティ、すなわち住む場所にしばられず、移動できるのが大事なこと。
自然のなかに行き、漂流者として生きることに憧れがある気がします。
 
それが映画になったのが、そう、「ノマドランド」(2021年、クロエ・ジャオ監督)ですね。
 
あの映画のなかでは、家を失っても「ホームレスではなくてハウスレスなのだ」とキャンピングカーで暮らし、Amazonの配送センターで季節労働をして、また渡り鳥のように渡って行く。
 
「ノマドランド」では、トイレ仕事は、きつい汚れ仕事であり、しかしやるべきタフなジョブというふうに描かれていました。
 
タフな仕事もこなしながら、でも独立独歩、おのれの自由を守って生きていくという生き方が、アメリカンスピリッツではないかと思います。
 
わたしにとっては「ノマドランド」を観た時と、「パーフェクトデイズ」を観た時の、心に残る思いは、非常に似かよったものがあったのですが、やはりアメリカだとフロンティアに旅して、日本だと庵を結ぶのだなあ、というのも納得できるところでした。
 
もちろんほとんどのアメリカ人は漂泊しないし、ほとんどの日本人も庵は結ばない。けれども憧れの底に、そういう理想像があるんじゃないかな、と思えます。


日々の雑用が精神修行となる禅的な生き方

東京で平山さんが誇り高く守るのは、日々のルーティンです。
 
それはちょうど禅寺で、日常の掃除や調理が重視されるのとも似ています。
禅寺では、食事を作る係は典座(てんぞ)さんと呼ばれますが、調理も修行とされる禅寺では、重要視される職務です。
 
茶の湯であるとか、生け花であるとか、所作や作業そのものを「道」にまで高める日本の精神世界を感じます。
 
そうしたきわめて和の精神にある生き方を描いたのが、ドイツの監督であるヴィム・ヴェンダースであるのが、面白いところだと感じました。


現実的にはあまりいない平山さん

平山さんが存在しそうで存在しないのは、日常生活のなかでクリエイティブに生きながら、他人をジャッジせずに受け入れ、日々の小さな喜びを大切にして、やるべきことをきちんとする、その精神の高さ。
もう禅僧ですね。
 
たんに毎日ルーティンを守る生活だったら、まあ、ほとんどひとが年を取ったら、そうなりますわね。
知らない人と会話をしないのも、けっこう楽。
年取ったら、だんだんこうなるよね、誰だって。
 
ただし平本さんのような禅僧レベルではなくて、たんに他人と会話をしない、孤立したライフスタイルだけでは、老いを促進させやすいかなとは思います。
 
現実にはいないだろうけれど、ファンタジーとしての平山さんのことを、「心の理想」としたい映画です。
 
たとえベルリンに天使がいなくても「きっと天使はいる」と信じたい心情と同じでしょう。
それはファンタジーがくれる心の効果でしょうね。

最後の役所広司の表情を観るだけでも価値ある映画

この映画の圧巻は、なんといっても最後の数分にわたる平山さんの表情でしょう。
車を運転しながら、微笑み、そして涙まじりになる平山さん。
 
今日という日に微笑み、なにかしらの過去の悔い、あるいは喪ったもの、あるいは亡くした知人、余命短い人のことか、あるいは戻れない日々かもしれない。
 
これはもう本当にすばらしい。
役所さんが役を演じていて、その没入感、その役へのなりきり方がすごいのですが、その裏には、役所さんの人格そのもの、カメラが捉える内面の深みそのものが現れている。
 
この表情はできないですよ、演技力とかいう言い方ではなくて、役に没入して、なおかつ役者の精神世界が深いひとでなければ、表現しようがないこと。
 
本当にすばらしい数分間の演技でした。
この数分を観るだけでも価値のある作品。
 
個人的なことながら、わたしがこの映画を観た、ちょうどその日は、友だちが亡くなったという訃報を受けた日でした。
 
まさかそのひとが脳腫瘍に倒れて、短い期間に逝ってしまうとは、まったく想像もしていなかった別れでした。
 
わたしはすでに両親も亡くしていますが、誰か大切なひとを亡くせば、わたしたちの心には、そのひとの形の穴が空く
 
そしてその穴は、そのひとがいないという現実の毎日を、少しずつ、少しずつ重ねていって、日々のルーティンで埋めていくしかない。
 
ひとの運命は、決して人智でコントロールできるものではない。
この健康法をすれば、この食事法なら確実に長生きできるとか、そんなものではない。
 
ひとの人生は決して予想通りにはいかない。
 
わたしたちは、そんな不確定な毎日を生きている。
生きていられる日というのは、はかなく、揺れる金色の光の糸のようなもので、わたしたちはその糸の上を歩みながら生きている。
 
平本さんが撮り続けるのは木漏れ日だけれど、そこには光と陰の、その一期一会の模様がある。
 
日々の喜びも不満も、幸福も不幸も、少しずつ交代しながら、時間が続く。
うまくいく時も、うまくいかない時も混じりながら、日々は流れつづける。
 
人生は木漏れ日のように、光と影が交叉して、けれどもその一瞬だけ、影と光の模様を描く
それはその時にしかないもので、二度とは繰りかえさない。
 
わたしたちはその木漏れ日のなかに生きている。
淡い光と陰の間に生きている。



 


 


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