『リトル・マーメイド』日本人にも無関係じゃない、アリエルが黒人である重要さ
今年の6月に、全世界で封切られた実写版の『リトル・マーメイド』
アメリカ国内および国外の売上は、$414 ミリオンドル(約4億14000000円)超えとなっています。
このライブアクション版が物議を呼んだのは、なんといってもヒロインの人魚姫が、アフリカ系アメリカ人のハリー・ベイリーが演じたため。
アメリカでは、大論争を呼んだキャスティング。
でも有色人キャスティングがなぜ大切なのか、私たち日本人にも無関係ではないことなので、アメリカ事情を解説したいと思います。
黒人のマーメイドはありなのか?
実写版の『リトル・マーメイド』がアメリカで論議を呼んだのは、黒人歌手であるハリー・ベイリーを起用したことから。
デンマークの童話である「人魚姫」が、そしてアニメ版では赤毛の白人である人魚姫が、なぜ黒人なのか。
アメリカでは、SNSで大批判を呼んだのです。
でも、よく見ていくと、実写版では父である海の王、トリトン役がハビエル・バルデムというスペイン系なんですね。
そして姉妹には、金髪の白人もラテン系もインド系もアジア系もいて、全網羅。
いったいどうなってんの、この一家。
この時点で、もう「この世界はファンタジーなので、メンデルの法則は関係ありません」という設定なのです。
そして舞台もカリブ海なのですが、生態系が入り混じっていて、マンタもいれば、マナティもいるよ、と多様性ありすぎるナゾ海(笑)
しかも人気キャラのフラウンダーが、実写版ではかわいくない! どころか、不気味で、どの魚にも当てはまらないナゾ魚すぎる。
そういうナゾ設定の映画ながら、わたしが実写版を見たかぎりは、アリエル役のハリー・ベイリーはさすがの歌唱力だと感じました。
なにしろ13歳の時にはビヨンセからアプローチされてレコード会社と契約、出したアルバムは2枚ともグラミー賞候補になったという実力派。
すばらしく上手い!
それでも反対する人たちはアメリカでも少なからずいたのです。
ティーザーが出たとたん、なんと1500万の「よくないね」が付き、ディズニーは「よくないね」機能を外す騒動となったのです。
反対派の多くの意見は、
「デンマークの童話の主人公を、黒人が演じるのはおかしい」
「ウェイク(目覚めた)カルチャーの押しつけ」
「子どもの時に親しんできたリトル・マーメイドの物語のイメージが裏切られた」
「アリエルの絵のままでいて欲しかった。実写はイメージを壊した」
というもの。
ここが奇妙なところで、なぜ人魚がいるという荒唐無稽な物語をカンタンに信じることができるのに、人魚姫が黒人であるだけで「違う」と感じるのか。
それどころか日本人でも、
「アリエルが黒人なんてイメージが違う」
「白い肌に赤毛でないと、夢がなくなる」
とかいっている人もいて、アゴが外れかけました。
ええええ、あなたは何人のつもりでそういっているの?
有色人種でありながら、ピープル・オブ・カラーを否定するの?
多様性を盛りこむのがディズニーの使命
歴史をひもとけば、ディズニーも昔は、童話のプリンセスは白人だけだったもの。
そこから最近は多様性を考えて、ジャスミンやムーラン、ポカホンタス、モアナ、ティアナ、そしてラーヤが出てきたわけですが、断トツにネームバリューがある古典童話に、どう有色人種の俳優を盛りこむのか。
これはディズニーの課題だと思うんですね。
現在のディズニーは「ダイバーシティ」(多様性)と、「インクルージョン」(包括性)を謳う企業であって、傘下のマーベルもその流れに従っています。
しかしながら、黒人のアリエルに違和感を覚えた層もいて、アメリカでは、「#NotMyAriel」というハッシュタグもSNSで出まわったほど。
はあああ?
わたしにいわせれば、アニメ版の時点で「これはアンデルセンの人魚姫じゃない!」と、叫びたかったですよ。
「人魚姫」といえば、王子に恋してもかなわず、最後の望みは王子を殺すことなのに、それをせずに海の泡と消える、その自己犠牲の物語に涙したはず。
それがハッピーエンド。
それって「フランダースの犬」のネロ少年とパトラッシュが助けられて、その後画家として大成功して、大金持ちになりました、やったー! くらいの改変でしょう。原作に対する裏切りですよ。
これこそ「わたしの人魚姫じゃない」!
時代とともに移り変わる社会の常識
でも、それだって「あり」なんですよね。
「人魚姫」原作の著作権は切れているので、改変しても問題なし。
そして悲劇で終わらない、ポジティブな「人魚姫」を時代が求めていると思ったからこそ、ディズニーも楽しいアニメ版の『リトル・マーメイド』を作ったのでしょう。
そのアニメのアリエルに夢中になった子どもたちは、すでに大人のはず。
アメリカでは1989年公開。
日本では、1991年公開。
当時6歳で見たアリエルちゃんファンは、すでに30代。
立派な社会人です。
いっぽう今の子どもたちにとっては、実写版アリエルが初めて出会うアリエルなのです。
そしてそのアリエルが黒人であることで、喜んだブラウンガールたちがいっぱいいるのも、事実なのです。
アメリカでは、予告編が出たときに、歓喜するブラウンガールたちの姿がSNSにたくさんアップされました。
自分たちの童話がなかったブラウンガールたちへの大きな贈り物
たとえば日本の少女たちが『リトル・マーメイド』を日本人が演じるのを見たからといって、べつに喜ばないと思うんですね。
なぜなら日本人というアイデンティティを持っている子どもにとっては、『かぐや姫』や『桃太郎』といった昔話が、自分たちの物語であると感じているから。
それぞれの民族や地域で、「自分たちの童話」を持っているぶんにはいい。
インド人や中国人やサウジアラビアの子どもだって、なにも自分たちに近い「アリエル」を欲しいとも思わないでしょう。
ところがアメリカのアフリカ系少年少女にとったら、ルーツといえる童話がないのです。
多くの黒人が奴隷としてアメリカに連れてこられて、自分たちの言語も民族も失って、アメリカ文化に同化させられてしまった。
となると、幼いときから触れる童話も、自分たちの物語はなくて、「白雪姫」や「美女と野獣」を与えられるだけだったわけです。
それだけにディズニープリンセスがブラウンガールになったというのは、アメリカ全土のブラウンガールたちにとっては、「ついにまわってきたプリンセスの役」であり、新しい世代にとっての憧れヒロインであるわけです。
それだけでもディズニーは大きな決断と進歩をしたと思います。
ディズニーの商売上手ぶり
そしてディズニーも商売上手だな、と感じたのは、商業的には両方を持っていること。
ディズニーストアに行くと、アニメ版「赤毛のアリエル」の商品もあれば、新しい実写版から作ったブラウンガールのアリエルの商品も並んでいるんですよね。
最近はディズニーが親会社である「マーベル」映画でも、マルチバースが前提になっていて、あれ、あの役の人は死んだのでは、というキャラも生き返るし、スパイダーマンも何人もいるし、もう何がなんだかわからない。
でも、ひと言「マルチバースだから」で済んでしまう。
ディズニーは今後もアニメの実写版を作っていくだろうし、色々とキャラの改変をしていくのだろうけれど、
「多次元宇宙なんで」
ですべて済ませられる気はします。
ピーターパンでも、有色人種を起用
ディズニーにとっての課題は、名作の配役に多様性を持たせること。
実写版「ピーターパンとウェンデイ」では、ピーターパンにインド系少年を起用しています。
またティンカーベルは、あのグリーンのミニドレスながら、黒人女優が演じているのです。
これも有色人種を配役につける工夫でしょう。
これまた配役について、
「多様性が行きすぎている」
という意見がアメリカでは出ています。
え、多様性が行きすぎている?
いやいや、ハリウッドが今まで、どれだけホワイトウォッシングしてきたのか、知っていますか?
ハリウッドのホワイトウォッシング
2022年度にハリウッドを席巻した映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』
賞を総なめしましたが、祖父のゴンゴン役を演じたジェームズ・ホンは、94歳。
70年におよぶキャリアのなかで、賞を受賞したのは今回が始めてであり、彼はこうスピーチで述べたのです。
「私が映画に出始めた頃、アジア人の役はテープで目をつりあげた白人俳優たちが演じていました。なぜならプロデューサーたちはアジア系では客を呼べないといっていたからです。ですが、今、私たちを見てください」
これはアジア人の俳優たちが甘んじてきた立場を代弁するスピーチといえます。
ジョニー・デップは「ローン・レンジャー」でネイティブアメリカンであるトントを演じているし、「ピーターパン」では同じくネイティブアメリカンであるタイガーリリーを、ルーニー・マラが演じました。
「ドクターストレンジ」でチベットに住む魔術の師匠エンシェント・ワンを演じたのは、ティルダ・スウィントンです。いや、全然チベットの僧に見えないでしょ。
わたしはティルダのファンですけどね、原作では、ヒゲ生やした男よ?
つまりハリウッドは、「マーケティング的に売れるから」という理由で無遠慮に、他の人種の役でも白人俳優に演じさせてきた歴史があるのです。
たとえば日本人が大好きなオードリー・ヘップバーンの『ティファニーで朝食を』
ここでは日本人ユニヨシを、ミッキー・ルーニーが演じていて、出っ歯と吊り目、禿にメガネという扮装をして演じました。
この扮装で、わざわざ「醜い日本人」「イヤな日本人」を演じているわけです。
この時代は、アジア系をバカにして良かったんですね。
そこから長い時間をかけて、有色人種の俳優たちの登用が増えていき、ようやくアジア系にも起用のチャンスがめぐってきたのです。
『エブエブ』が賞を総なめにしたことについては、
「アジア系に、ゲタを履かせている」
という批判もあったのですが、おいおい、待てよ、ゲタを履かせる以前に、そもそも同じ土俵に立てないようにしておいてよくいうよ、といいたいです。
日本のマンガもホワイトウォッシュされている
日本のマンガは世界的にも売れています。
ですが、それを実写化する時には、ホワイトウォッシュがされてきたのが、ハリウッドの現実。
たとえば、『攻殻機動隊』実写版。
主演は、スカーレット・ヨハンセン。
それが動員数を生むから、というスタジオ判断だったわけです。
『マッハGoGo』も、なぜか白人俳優が主演に起用。
それなのに、映画がヒットせずに撃沈という残念な結果に。おーい。
『聖闘士星矢』も、新田真剣佑が主役であるものの、名優ショーン・ビーンや、ヒロインに白人女性を配して、あのビジュアルでは、『聖闘士星矢』の実写版だとすら気づかないのでは。
なぜ「#NotMySeiya」というハッシュタグで、日本の観客が文句をいわなかったのか、ナゾです。
さらにいえば、ようやく有色人種の俳優たちに役を与えられる機会が増えてきたものの、テレビや映画の製作現場で決定権を握る人たちには、まだまだマイノリティが少ない。
おかげでいまだにナゾ日本やナゾ芸者が登場するわけです。
ようやくここに来て、有色人種の俳優たちの仕事も増えてきているので、アジア系の一員であるわたしとしては、マイノリティの活躍の幅が広がるのは、わたしとしては嬉しいかぎりです。
なぜ有色人種のマネを白人がすると文化の盗用といわれ、その反対はないのか?
では「デンマーク童話のアリエルを、黒人にするのは、文化の盗用にはならないのか?」
という反対意見も、アメリカで出ました。
有色人種の文化を、ヨーロッパ白人系が模したら「文化の盗用」と叩かれるのに、なぜ有色人種がヨーロッパ文化を盗用してもいわれないのか。
けれども、これには歴史的にみれば、回答があること。
それは「すでに近代植民地時代に、アジア、アフリカ、南米、中近東は列強諸国に搾取された」過去があるから。
そして植民地とされた地域は、ヨーロッパ文化に同化政策をさせられたから。
かつてヨーロッパ列強諸国が、アフリカやアジア、南米を植民地とした時に、そこから労働力や資源や財産を吸いあげていった。
植民地から搾取した富があったからこそ、当時のヨーロッパ文化は頂点をきわめて栄えたわけです。
いっぽう現地人がヨーロッパの文化に従うのは「同化」といわれたのです。
カナダにおける先住民や、オーストラリアでのアボリジニに対する同化政策(親から切り離して、彼らに西欧的文化を学ばせて、ゆくゆくは先住民文化じたいを抹消する)もあったのですが、最近になって、ようやく「間違っていた」という認識になりました。
フランシスコ教皇、そしてカナダのジャスティン・トルド—首相が、先住民に対する謝罪を表明したのです。
日本は植民地にならなかったけれど、西欧文化が入ってきて、ちょんまげを切り、刀を禁止にして、着物から洋装に変化した。
ニューヨークを代表するメトロポリタン美術館を訪れると、すばらしい日本美術のコレクションがあります。
こうした美術は売られたものだし、美術館に収容されなかったら第二次世界大戦で焼けていたかもしれず、完璧な管理体制で収容されているのは、むしろラッキーだったかもしれない。
それでも当時の圧倒的な国力差は感じます。
時代によって変わるのが、人間の常識
そして『人魚姫』原作を読み返して、あらためて気づいたのですが、当時のヨーロッパでの常識は、キリスト教の世界観だったのですね。
原作では、人魚は神に魂を与えられていないものと設定していたのです。
元の物語では、海の泡と消えた人魚姫は空気の精霊に転生するというチャンスをもらうのが救いになっていますが、現代であれば、ブーイングされるエンディングでしょう。
原作の「人魚姫」は、そのままでは現代の価値観に合わない。
わたしが子どもの頃に読んだ絵本ですら、すでに変えられていて、最後のくだりはありませんでした。
物語も世につれ、時代の意識の変化につれて変わっていくのは当然のこと。
たとえば「白雪姫」や「眠り姫」における、「寝ているヒロインにキスをして目覚めさせる、ステキな王子さま」という設定であっても、現代では「気持ち悪い」と考える少女たちが多いはず。
ディズニーは今後の作品では、この設定は使わないでしょう。
だからこそ『眠れる森の美女』の実写リメイク版では、アンジェリーナ・ジョリーが演じる『マレフィセント』という魔女側の視点から描かれたわけです。
その時は、「私の眠れる森の美女じゃない」というハッシュタグは起こらなかったですよね?
文化の盗用よりも、正しく文化を理解して欲しい
「文化の盗用」という言葉も、時には行きすぎることがあります。
ボストン美術館で、キモノを着ることができるアトラクションがあった時にも、
「文化の盗用だ」
という抗議があって取りやめになったんですが、わたし自身はまったくそれには賛成しません。
ファッションや音楽やアート、エンタメといったアートやカルチャーにおいては、他のカルチャーを取りいれたり、リミックスしたりしてこそ、また新しい刺激的なものが生まれるので、ここで「文化の盗用」をいいだしては、クリエイションがつまらなくなる。
また近頃は、日本の文化に憧れるアメリカ人だって少なくないわけで、アメリカ人が戦国時代の甲冑を揃えたり、忍者衣裳に憧れることが、文化の盗用とはまったく思いません。
そして個人的には、盗用以前に、むしろ日本の文化をもっと正しく研究して欲しいというのが本音。
たとえばオペラの「蝶々夫人」
名作ですが、欧米で上演されている舞台のセットや衣裳は、日本とかけ離れています。
メトロポリタンオペラの「蝶々夫人」は、すばらしく美しい舞台ですが、それでも着物や日本髪は、「どこのスターウォーズ?」というくらいに、アミダラ化しています。
正直にいえば、もっと正確にして欲しいです。
盗用以前に、正しいリサーチからして欲しい。
まったく苦労なしの人魚姫にドラマツルギーはあるのか
さて、映画としての『リトル・マーメイド』の感想。
わたしがむしろ気になったのが、プロットの「ご都合主義」のほうでした。
全体を通して「なんの葛藤も、悩みもない人魚姫だなー」という感想。
なんでも簡単にうまくいってしまうストーリー展開なので、プロットについては「ご都合主義」かなと。
しかしながら配役については、『リトル・マーメイド』でハリー・ベリーを起用したのは、わたしたち、有色人種にとってはプラスになる判断だと感じました。
日本国内にいると、あまり意識しないかもしれないですが、われわれは世界のなかでは、まぎれもなくPeople of Color (有色人種)なんですよね。
わたしたちは有色人種として、ハリー・ベイリーの登用を喜んでいい。
アジア系俳優たちにとって門戸を広げるから。
そしてわたしたちは、少しだけ想像力のリミットを広げてもいいのではないでしょうか。