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ねないこだれだ (3)

【 5 】


 一階までの移動は非常階段を使用し、カメラが設置されたエントランスを避けて駐輪場からマンションをでた。待ちあわせ場所は徒歩で一〇分ほどかかるアミューズメント施設の駐車場だが、このご時世どこに防犯カメラが設置されているかわからないので細心の注意をはらいつつ、薄暗い裏路地を通ることにした。少々遠回りではあったが、思ったよりも早く施設に到着した。まだまだ声の高い――おそらく中学生だろう――男の子たちのグループがたむろしている西側入り口の前を早足で通り過ぎて、駐車場へ向かった。週末や祝前日は終日営業しているとあって利用客は多いはずだが、雨が降っている所為か、わたし以外に外を歩いている者はいなかった。人目につかない駐車場の隅で遼の到着を待つと、五分ほどしてそれらしき影が近づいてきた。遼だった。遼は昨日と同じ服を着て、昨日と同じくうしろ髪がはねていた。違っていたのは安いビニール傘をさしている点だけだ。
 わたしはスノボウェアの前を少しだけ開いて、首に巻いたマフラーに触れた。ガサリとマフラーは不自然な音を発したが、せわしない雨音の中で、気にとめる必要はあるまい。
「悪いね。助かるよ」右手と口角を同時にあげた遼は、さしているビニール傘をくるくると回して水滴を飛ばした。吐きだした白い息が左に流れ、雨粒の中に消えて行く。わたしは吐いた息にすら嫌悪感を覚えていた。本人を目の前にすると気持ちが揺らぐのではと危惧していたが、杞憂だったようだ。
「えぇっと。ひょっとして、かなり待たせちゃった?」
 わたしが無言を貫いていたからなのか、遼は鼻を啜って視線をそらし、申しわけなさそうに首をすくめた。
 スノボウェアの前を鳩尾辺りまで開き、マフラーの端を掴む。
 上手くいくだろうか。シミュレーションどおりに。
 わたしはやれる。やらなければいけない。
 トウマのためにも。家族の未来のためにも。
「いや、悪いと思ってるんだよ。申しわけないって。だからさぁ、はは。そんなに怖い顔するなって。ところで、ここ寒いし、雨降ってるし、場所移動しない?」
 怪しまれないようにゆっくりした動作で、マフラーをウェアの外へとだしながら顔をそむけてかぶりを振った。「――ここでいいから」マフラーで包んでいるビニールの傘袋が耳障りな音を発した。息をとめる。傘を傾けて顔を隠す。どうか遼の耳には音が届いていませんように。「お金を渡したら、すぐに帰るから」
「でもさぁ」
「人に見られたくないの。だからここを選んだのよ」
「あぁ……」遼は下唇を噛んで、顎をかいた。「だよなぁ。ははは。まあ、金の貸し借りなんて人前でやるもんじゃねぇよな。っていうか、怖いよ、顔。心配しなくても、借りた金はちゃんと返すって。ただ、このところちょっと上手くいってないだけで、仕事もほら、あれだ。いろいろ問題もあったけど上向きになってきてるし。それに――」
 聞きたくもない自分語りがはじまったので胸を撫でおろした。気づいていない様子だ。わたしは傘を傾けて、胸からうえを見えないように隠した。マフラーを首から外し、地面に着かないよう気をつけて、まっすぐ垂らす。オクトパスタスクの重みで傘をバウンドさせてしまったが、傍目には不自然なところなどないはずだ。わたしはマフラーをはずしただけ。長いマフラーをまっすぐ垂らして持っているだけ
「なぁ、聞いてる?」
「――え?」
 顔をあげると、傘のしたから覗き込んでいる遼と目があった。わたしは思わずマフラーへ目を向けてしまった。慌てて視線をあげ、首を縦に振りながら言葉を紡ぐ。
「いま、仕事の話とかされても、わたしは全然、ほら、仕事に関してはあまり話したことなかったから、だから――」
「それ。そのマフラー」
「え?」
「そのマフラーって、トウマがプレゼントしたやつだよな。一昨年のクリスマスに」
「あ……あぁあ。そう。そうだっけ」
 心臓が早鐘をうちはじめた。汗がふきだしてくる。息が苦しい。上手く呼吸できない。いまわたしがどんな顔をしているのか想像したくもない。
「そうだろ? 絶対そうだよ。おれと一緒に買いにいって、トウマが選んだやつだよ、そのマフラー。端についてるブランドタグを見れば――」
 手が伸びてきた。マフラーを掴まれそうになる。わたしは傘を傾けて一歩退いた。
「そうよ、そう。そうだった。トウマにもらったマフラーね。すっかり忘れてた。それよりもお金……お金、持ってきてるから」
 右のポケットに手を突っ込んで、中に入れていた封筒を掴んだ。必然的に傘を持つ左手一本でマフラーも持たなければならなくなる。重量でしたに持っていかれそうになったが、傘の柄を肩にのせてどうにか堪えた。
「はは。悪いな。助かるよ、ホント」
 遼は笑顔で頷きながら封筒を受け取った。中には一万円札を五枚入れている。入れてはいるけれども、本当に渡すつもりはない。
「来月になれば、余裕はでてくるんだよな。問題は今月。今月がどうしてもさぁ。まぁ、いろいろとあって」
 喋りながら封筒を開き、遼は金額の確認をはじめた。
 わたしは遼に目を向けたまま、垂らしたマフラーの真ん中あたりに触れてみた。カサリとビニールが音をたてた。指の腹が沈む。オクトパスタスクはまだ硬化し終えていない。吐く息は白く、気温は硬化の条件を満たしているはずなのに。
「五万か。来月にはちゃんと返すからさ」
 遼は口の奥で光る銀歯を見せると、目を細めていやらしく微笑んだ。さっきまでわたしが首に巻いていたマフラーが、硬くて、重く、殺傷力の高い鈍器に変化しつつあるとは夢にも思うまい。だから早く。早く、早く、早く。早く硬化を。
 手間と時間のかかる方法を選んでしまったことを悔やんでしまうが、身体的能力の差を補うには強力な武器を手にする必要があったし、反撃を許さず、確実に一撃で仕留める方法は不意打ち以外に思いつかなかった。
 再びマフラーの真ん中あたりに指の腹を押しつけてみた。もう少し。もう少しだから焦るな。焦ってはいけない。確実にしとめるために、計画したとおりに、わたしとトウマの未来のために。
「じゃあな。また連絡するよ。トウマによろしく伝えておいてくれ」
「待って。ね、ねぇ――」
 よろしくだって? どの口が言っているのか。気軽に口にするな。トウマの名を。
 本音はそう言いたい。言っていますぐ殴り倒したいけれども、作りものの笑みを顔に貼りつけて遼を呼びとめた。とめはしたが――言葉が続かない。
「なに? なんだよ」
 上着のポケットの中へ封筒をしまって、遼は不機嫌そうに口の端を歪めた。癪に障る表情に怒りを覚えて、自然と頬が引き攣った。駄目だ。堪えられない。だけどあと少し。あともう少しだけ。
「あ? おい、濡れてるぞ。マフラー。ほら、地面に――」
 ポケットから手をだして、遼は左手を伸ばしてきた。垂らしているマフラーに向けて。反射的にわたしは身体を退き、マフラーで隠したオクトパスタスクの先端を地面に打ちつけてしまった。鳴ってはいけない音が遼の耳に届いたかどうかはわからないが、思いがけないかたちでそのときがきてしまった。わたしは傘を放し、両手でマフラーをしっかりと握った。指は沈まない。充分に硬化していることを祈りつつ、胸の高さまで持ちあげて、渾身の力でもって遼の頭部を狙って振り抜く。
 放った傘に注意を奪われていたので遼はすぐに反応できなかったが、わたしのひと振りには上手く身体を捻って、クリーンヒットを逃れたように見えた。遼の手を離れた透明なビニール傘が出鱈目に回転して地面のうえを滑る。わたしは追撃すべく、脇をしめて足を踏ん張った。しかし次の瞬間、遼は頭に手を添えてぐらりと身体を揺らしたと思いきや、雨に濡れてキラキラ輝いている地面のうえへ崩れ落ちた。半歩ほど身を退き、わたしは早鐘を打っている心臓を落ち着かせるべく、肺がいっぱいになるまで湿度の高い空気を吸い込んだ。
 わたしが握りしめた鈍器は、一〇度ほどの角度で折れ曲がっていた。足りなかった。硬度が。だけど遼に強烈な一撃をくらわせることができたし、いまこの瞬間もオクトパスタスクは硬化し続けている。
「あ、あぁ。あぁあ……」
 遼は苦悶の声を発しながら地面を這い、わたしから遠ざかろうとした。睫毛に載った雨粒を指先で弾くように落として、遼へと近づく。ゆっくりと。地面を這う遼と変わらぬ速度で。焦る必要はない。強者はわたしだ。遼の命はわたしの手の中にある。
 額と頬を伝う雨を手の甲で拭って、地に伏した惨めな姿を見おろす。遼は左手で地面をかきながらも、右手は上着のポケットに突っ込んで中を探っていた。呆れた。この状況下でもなお現金の入った封筒を気にしているようだ。
 鈍器を振りあげる。うつ伏せた遼の顔は見えない。振りおろせば終わりだ。もうわたしたち家族が苦しむことはない。遼に苦しめられることはない。二度と。
「あぁ、はあぁあああ……」
 とどめの一撃がくらわされることを悟ったのだろうか。遼は這うのをやめて、頭を――いや、顔を庇うように両手をもぞもぞと動かした。
「あなたのせいよ」遼の横に立つ。「全部、あなたが悪いのよ」そして振りおろした。唇を噛み、まぶたを閉じて、遼の後頭部めがけて勢いよく。


〈つづく〉

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