リード
レッド、
オレンジ、
クリーム、
ブラウン。
ランダムに配置された四色のレンガの中からブラウンを探し、見つけたら素早く、つま先でとらえる。
無事に踏めたら次のブラウン、また次のブラウン。
……なんとなくはじめた無意味な行為だけど、やっているうちにだんだん楽しくなってきた。
ブラウンを探す。
ブラウンだけを踏む。
踏み外したり、探しだせなかったら負け。
負けといっても、だれかと勝負してるわけじゃないんだけど。
きっと、
たぶん、
二度と通ることはないだろう、西区の、朝比奈通りの、四色レンガが敷き詰められた狭い歩道を緩やかな歩調で進んでいる。
ゆっくり。
ゆっくりと。
ブラウン以外のレンガを踏んだりしてしまわないようにゆっくり、ただただ、ゆっくり、朝日を浴びながら進んでいる。
不意に、あれ? と、思う。
ほんの少し口角があがっていることに気がつく。
繰り返しているうちに目が慣れたのか、それとも才能が開花したのか、探そうとしなくてもブラウンのレンガを無意識に目でとらえて、つま先で踏めるようになっていたからだ。
濃淡は微妙に違えども、たしかにブラウンへ。
ブラウンのレンガのうえへ。
決して踏み外してはいけないブラウンのレンガへ足をのせて――
「 !?」
後方から、冷たく鋭い刃物でもって身体を貫いてくるような、けたたましいブレーキ音が鳴った。
続けざま、ビリリと強い電撃を浴びせられるような、甲高くて刺々しい金属音を投げつけられた。
わたしは息をとめて――もとい、息がとまって、硬直してしまって、それでも固まった上半身を無理矢理捻ってどうにか振り返る。
視線をあげる。
音の正体をたしかめる。
視認したのはクロスバイクに跨ったダークスーツの中年男性で、目があった瞬間に睨み返されて、露骨な舌打ちをされた。
暴力的で、威圧的な。
――ごめんなさい。
声はのせずに謝って、頭をさげる。身が縮こまる。通行の邪魔にならないよう素早く移動して、側溝のフタの上に立つとさらに身が縮こまった。
端へ避けた途端に、様々な色と、モノと、音とが洪水のように押し寄せてきて、背中と肩とがかたくなる。強張ってしまう。
おのずと視線がさがる。
地面へと目がいく。
レンガが組みあわさってできている、歩道の地面へと。
レンガは四色。四色だけれども、表面に落ちた街路樹の葉の影がせわしなく震えている所為で、点滅しているような錯覚を覚える。
――影。
影か。
さっきまでのわたしは影すら認識することができず、ただただブラウンのレンガ、それだけに、脳内の多くの領域を支配されてしまっていた。
顔をあげる。
あげるなり、短く鋭い舌打ちが再び外耳へと届いた。
道を譲った中年男性が追い抜きざまにこちらを睨んできた。
男性の身体にも街路樹の葉の影が落ちていて、高級そうなクロスバイクの表面にも同様の影が落ちていた。
間を置かずに、気怠そうな声を発する制服姿の女子生徒ふたりが横を通り過ぎて、ふわり、と、風が木漏れ日のかたちを変えた。
――あぁあ、
わたし、わたしは、
ほんとうに情けない。情けなく思う。わたしはどれだけ歩道のレンガを、レンガばかりを見つめていたのだろう。
通りには多彩な色と光とが溢れていて、様々なメロディとリズムとが入り混じって、心地よくもあり、不快でもある聞き慣れたノイズが生成されていたというのに、いま、はじめて気がついた次第だ。
靴音。葉擦れ。野鳥の囀り。アスファルトを削るタイヤの音。横断歩道に流れるシンプルな擬音。ベル。クラクション。どこからか聞こえてくる、よく知った広告のジングル。大好きな楽曲。こんなにもたくさんの音。音、音、音、音。音で溢れかえっていたというのに。
わたしは決意して、
さよならを告げて、
誇らしい覚悟と、まっすぐな心と、願い——それと、わずかな寂しさをもって、新たに歩みはじめたつもりでいたけれども気がついたら下を見て、下ばかりを見て、どうだっていいブラウンのレンガのみを踏む遊びに興じてしまっていただなんて。
周囲を見渡す。
気がつくと、乗るつもりでいた地下鉄の入り口前を通り過ぎてしまっていた。
踵を返さなきゃいけないんだけど、なぜだか、
なぜだろう――
足をとめずに知らない道を、街並みを、じっくり観察するように進み続けてしまう。目で、耳で、肌で。好みのものだけは鼻でも感じ取って、知らない街の風景を楽しみつつ、気の向くままに両足を動かし続ける。
そのうちだんだんと、重なりあう音の数が少なくなって、すれ違う人の数も減って、代わりに建物と建物の間に植えられた緑の量が目に見えて多くなった。なったところで、
( ――!)
突然鳴り響いた、踏切の警報音。
音へ目を向けると、緩やかな登りになっている狭い道の先――意外とすぐ近くに点滅する信号が確認できて、その向こう側、遮断桿と若干重なるようにして――
「……え?」
なに?
なんだろう?
ふわふわした〝なにか〟が、
白く柔らかそうなふわふわした〝なにか〟が、宙に浮かんでいて、
黒く小さなクリクリした瞳で、まっすぐ、わたしを見つめていた。
※
招かれているかのように、わたしはあとを追って進んでいる。
同じ高さと、同じ距離を保ち続ける、ふわふわした〝なにか〟のあとを追いかけている。
それは意思をもった生物——生命体であるのはたしかだと思うのだけれども、個の知識で判断するに存在しえない謎の物体であって、だけどたしかに、瞼を擦って再度、再々再度確認するまでもなくわたしの正面にその〝なにか〟は存在していて、動いていて、ふわふわした身体でゆらゆらと揺れながら、緩やかな登り坂を進み続けている。
「 あ」
思わず声がでた。
道の先――坂の上から歩きてきた女性が、浮遊する〝なにか〟を一切気にすることなく、歩調すら変えずに通り過ぎる様を目にしたからだ。
なぜなのか。
どうして女性は気にもとめなかったのか。〝なにか〟を無視した理由はなぜだろう——という疑問への解答は考えるまでもなくて、きっと、そう。そういうことなのだろう。ふわふわした〝なにか〟は、わたしにしか見えていないのだ。わたしだけにしか見えていないのだ。
だとしたらわたしは幻覚を見ているのか、脳に意地悪されているのか、
そこに見えている〝なにか〟の存在を証明することは絶対に――え!?
( !)
いけない。
右へカーブする坂道のわきに立てかけられた看板と、黄色い花を咲かせた植物の陰へ〝なにか〟は姿を隠し、見えなくなってしまった。
手にもっていた荷物を胸に押しあてて、スピードをあげて、坂道を駆けあがって、再び〝なにか〟の姿を視界にとらえたと思ったら、今度は左へカーブした道の先へと、ふっ、と消えるように見えなくなってしまう。
加速する。
地面を強く蹴る。
荷物を持つ手に力が入る。
額に頬に耳にぶつかってきた空気が、素早く髪を梳いて後方へ流れていく。
「——待って!」
知らずわたしは声にだして呼びかけていた。
姿をとらえては見失い、またとらえては逃げられてしまう〝なにか〟を追って、追いかけて、気がつくと顎を突きだすようにして口で荒々しく息をしていた。
堪らず足をとめる。
傍にあった電柱に凭れかかるようにして身体を休める。
ふう、と短く嘆息。肩に入っていた力が抜け落ちて、だらりと手がさがり、さがるなりやけに大きくて重い溜息がでた。
登り坂の先――低いフェンスで囲まれた児童公園入り口に〝なにか〟はとどまっていて、再びわたしが歩きはじめるのを待っているかのようだった。
足を動かす。坂道を登る。
右の頬に香ばしい花粉を含んだ風があたって、あたったと思いきや左側の髪を梳きつつ通り過ぎていく。
フェンスとの距離が縮まってくると、色が消えかかっている滑り台が目にとまった。滑り台は大きな榎を背にしていて、檜はさらに大きな檜を背にして聳え立っていた。そこへ突然あちこちから鳥の羽ばたきが聞こえてきて、複数の影が飛びだし――飛びだしたかと思いきや、それら影は生い茂る枝葉の中へと吸い込まれるように消えて、あっという間に見えなくなった。
「……あれ?」
外耳内での残響だけを残し、身体を包むように降りてきた静寂の中で、わたしは首を傾げ、
「……どこへいったんだろう」
ひとり呟きながらあたりを見回しつつ、姿の消えた〝なにか〟を、白くふわふわした〝なにか〟の姿を探して、公園へ足を踏み入れる。
壁をなしている背の高い樹木の傍を進み、乾いた小枝をパキリと踏み折りながら歩を進め、やがていくつもの幹が背後へと流れて、緑が、枝葉が、視界を遮っていた樹木の壁が崩壊していって、水色の空――生い茂る枝葉に隠されていた空が眼前に広がり、広がるなり、
(……え?)
鳥が、囀っていた。
やかましく鳴いていた鳥が、いまは不思議と心地よいトーンで優しく囀っていた。
瞬きする。
瞬きを繰り返す。
遠く――遥か遠くまで見渡せる、高台の公園に、わたしはいる。
街を見渡せる、眺めのいい展望台に、わたしは立っている。
いつしか風は凪いで、騒がしかった葉擦れの音が消えている。
白く細長い雲が東の空から頭上へと伸びていて、目で追って――追っている途中で射してきた強い陽の光に両目を細めながら、手を翳してみる。
少し視線をあげて、下唇を軽く噛んで、まっすぐ――背筋を伸ばして伸びをした。
眼下にはどこまでも広がっているように感じられる広大な世界。
白く霞んだ世界の果てと繋がっている澄んだ空には、全身を温かく柔らかく、それでいて鋭くも射す、眩しい陽の光で満ちている。
——あぁあ。
わたし、
わたしは、
導かれてここへ辿り着いたのだと知る。
わたしがわたし自身を導いて辿り着いたと理解し、納得する。
広い世界を目のあたりにして、少しだけ怖じけている臆病な心に鞭を入れる——恐れるな。決めた。決めたじゃないか。わたしは決意したじゃないか。
誇らしい覚悟と、まっすぐな心と、願いをもって歩みはじめたんじゃないか。
顔をあげろ。
高く、顔をあげよう。
あげて遠くを見つめるんだ。
わたしは、わたし自身の意思でもって、
世界を見渡せる場所へと、辿り着いたんだから。
——了
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