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哲學思想日記 2024-01-15/21 多數決・暗記・力

多數決、つまり民主主義によって、たとえば「經濟成長率󠄁を可能な限り最大にするにはどうすべきか」という問いへの正答が得られると考えるのは滑稽だろう。經濟學者に任せた方が早いだろうし、將來的にはAIに任せるのが一番良いということになるかもしれない。しかし「安全󠄁保障や福󠄁祉󠄁や文化󠄁を犧牲にしても經濟成長率を可能な限り最大にすべきか」という問い、あるいは「經濟成長率が同じであると假定して、その果實をどう配分すべきか」という問いは經濟學者にもAIにも委任できない。なぜならこれは主權者󠄁の意向(意思)を尋ねるものであって、眞理を求めるものではないから。つまり、「君は何を食べたいの?」という質問に近く、「(ax+b)(cx+d) を展開すると何になる?」という質問とは別種だから。「〜すべきか」という言語表現の見かけ上の類󠄀似に惑わされてはならない。もちろん主權者󠄁が成人した國民にあること (民主主義) に必然性は無く、せいぜい歷史的経緯や人間の文化󠄁やヒト種の何らかの本性に由來するのみであろうが。

可能な音符の總體:永遠󠄁の相で音樂を聽くこと。
なぜ今この音が鳴っているのか:世界の意志。

無神󠄀論の歷史について調󠄁べたい。

万民の相のもとに國家を眺めること。

私は自らの言葉を體系化󠄁することが本當に苦手みたいだ。

私は哲學が大嫌󠄁いだ!

「ついて論文」の歷史については旣に誰か硏究しているのだろうか?

大衆は單なる感性の限界內の道󠄁德しか持たない。

「暗記科目とは何か」について氣になっている。暗記の對義語は何か? 演繹? 最も暗記科目から遠󠄁い科目は何か? 數學? なぜ數學か? A priori、あるいは記號操作だから? 暗記科目の典型例は何か? 世界史。では史的唯物論が成り立てば世界史は暗記科目で無くなるのか? しかし、例えば Karl Marx の名は、その固有の生涯は、どこからか演繹可能なのか? Émile Zola ではあるまいし。

歷史は 未だ 法則化󠄁不可能なのか? それとも本質的に抽象化󠄁不可能なのか?

大森莊藏は法則定立と個性記述󠄁の對立を「危󠄁險」「不生產的」と稱󠄁していた(科学基礎論学会『科学基礎論研究』10 (3), 134-142, 1971, 134頁)。

Leibnizの「理由律」の「陰畫」がKantの「因果性カテゴリー」なのかな?

なぜ宗敎はしばしば禁欲を說くのか?

カルトの敎祖は、實は、俗っぽくなくてはならない。そうしなければ教勢が擴大しないのだから。

敎養學部なんていらないだろう。無敎養が許されるのは高校生までなのだから。

中島義道『時間と死』曰く:神が存在しないのと同じ意味で未來も存在しない。神の槪󠄁念から神の現存在が導けないのと同じ意味で未來の槪󠄁念から未來の現存在は導けない。

過󠄁去は本當に不可變なのか? SFでいう「平行世界(パラレル・ワールド)」や、可能世界意味論で考えれば、例えば時間旅行により「歷史のif」を作ることは可能なのではないか(『刀劍亂舞』の「歷史修正主義者󠄁」のように)?

公的過󠄁去(他人の記憶)は變えらえるとしても、他人の記憶を變えたという私の記憶としての私的過󠄁去は變えられないのでは?

しばしば哲學は常識を疑うものだと言われる。しかし常識の疑っている人同士にもにも段々と「常識を疑う際の常識」や「常識の疑い方の常識」が生まれてくる。

座談會「時間について」(『科学基礎論研究』 12 (4), 159-170, 1976) の163頁で、大森莊藏が「〔松本正夫〕先生に味方してむしろ山本〔信〕君に質問したいのですが, 感覚の中にある, ものの中にあるということは, 例えばものが変化していきますね。その時に数えるという操作がそこに要るんですか 。つまり芽が吹き出してきて木になるという, その時に数えるということは, それに気がついているというぐらいの意味?」と發言している。

また、165頁で「〔松本正夫〕先 生のおっしゃるように全ては感覚から始まるということになれば, 感覚的魂が墓の下にはいった時に (笑声), 死後の世界で魂はどういう風にものを認識するのでしょうか。〔中略〕ただアリストテレスはどう考えていたかということを, 大アリストテレス学者にお尋ねしているだけです。(笑声)」と質問している。

どちらもあまり的を射た回答を受けているように見えないが。

偶像崇拝が不道󠄁德なのはわかる。耳があっても聞こえず、目があっても見えず、命を持たず、つまりは神󠄀ではない石像を神󠄀として崇めることは神󠄀への冒󠄁瀆であるから。しかし、いかにして多神󠄀敎を論駁しようか。ググったところ、Πλάτων の Εὐθύφρων における「神々の爭い」論法があるらしいことがわかった。

私は毆られるとき、あるいは毆るとき、力を感じる。愛するとき、または愛されるときに力を感じる。しかし物理學の扱󠄁う「力」とは質量と加速󠄁度の關係に過󠄁ぎないのだ! この私が感じるこの苦しさ、この重さ、この痛さ、つまり「力」とは別の言語ゲームに屬しているのだ!

I. Kant は『遺󠄁稿』の中で「自然科学の形而上学的原理から物理学への移行」を目指していたらしい(嶋﨑太一「カント『遺稿』におけるphilosophia naturalisとscientia naturalisについて」西日本応用倫理学研究会『HABITUS』 25 34-50, 2021-03-20)が、むしろ運󠄁動の「原因」を度外視󠄁(エポケー)することによって近󠄁代物理學(Galilei, Newton は近󠄁代というより近󠄁世だが)は Ἀριστοτέλης の軛から脫し、單なる現象の純粹な記述󠄁へと「進󠄁步」を果たしたのではあるまいか?

過󠄁去記事のPDF↓

Image by Papsiy from Pixabay

今日の一曲:VIGORMAN『短命治療 feat. 唾奇』


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