9/30 私が音楽を演奏する意味
20年ぶり位に、ピアノとリコーダーを、人前で演奏する機会があった。
このことは、過去の自分と対話する機会になった。
★演奏の機会をくれたSpecialThanks さん
・星のフェンネルさん(Facebookページ。ピアノとリコーダーの先生)
・雑貨屋星に願いを皆に愛を さん
(Facebookページ。星のフェンネルさんと引き合わせてくれたお店)
過去のピアノについて
私がピアノを習い始めたのは小学校2年生の時。
母親から『家の近くにピアノ教室があるんだって。行ってみない?』
と勧められ、なんとなく習い事として始めた。
この時の私は、曲を楽しもうとか、美しく弾けるようになりたい、
という想いは薄かった。
ピアノの先生から、弾き間違いを指摘され、叱られることを、
とても窮屈で怖いと感じていた。
当時の私は優等生でもないのに、背伸びして優等生を演じていた。
優等生であることが、親からも、周囲からも愛され認めてもらえることだと思い込んでいた。
だから、失敗やミスは、当時の私にとって、
よりよくするための検証の材料ではなく、あるよりはない方がいいもの、
避けたいもの、だった。
ピアノの先生の怒った時の目と表情が今でも思い出されるほど。笑
『なんでここを間違えるの?!』
『はあ…(溜息)』
『なんでこんな簡単なフレーズが弾けないの?もう知りません!』
『練習をしてこなかったのは、ダメなこと。練習してきて下さい!』
レッスン時、ピアノの先生に怒られないように、間違わないように、
と、びくびくオドオドしながら弾いていた。
練習についても、
レッスンまでに練習した/練習しなかったことについて
『ピアノの練習よりも、私は何を優先させていたのかだろう?』
ということを自分に問うよりも、ただただ
『先生に怒られるから練習しなきゃ。』と考えていたから、
ピアノの前に座るといつも緊張状態。全然楽しんでいなかった。
過去のリコーダーについて
リコーダーは独学で吹いてきた。
小学校でリコーダーの授業が始まった時は、
指使いもままならなくて、寧ろ苦手だと感じていた。
だけど、その時仲良くなった友達がいた。音楽をとても愛している子だった。
毎日毎日熱心に新しい音楽の楽譜をノートに書き写してきては、
『ねーねー、これリコーダーで一緒に吹こう!』と、しつこく誘われる日々が続いた。しぶしぶ吹くと『そうじゃないよ!こうだよ!』と、
楽譜の読み間違えた所、吹き方のまずい部分に指摘がくる。
最初は、私はリコーダーが苦手だと言っているのに、ずっと誘ってくるその誘いが本当に面倒で億劫で、その子がたまに学校を休んで
朝からの演奏のお誘いがない日に、心底ホッとしていたくらいだ。
だけど、そうやって続けていったある日。
小学校の休み時間に突然、
『あ、”主よ、人の望みの喜びよ”の、フレーズ吹いてみたいな♪』と
思った日があった。
その想いのままにリコーダーを取り出して吹いてみると、
運指表も楽譜も手元になくても、指がスラスラと動き出した。
『主よ、人の望みの喜びよ』(パイプオルガンの演奏)
https://www.youtube.com/watch?v=i_TKFBJnPh8
この時の喜びは、何ものにも代えがたかった。
この日から、気に入った音楽を耳にしてはリコーダーで吹く、ということ
を繰り返しはじめた。学校の行き帰りもピロピロ吹いていた。
私にしつこくリコーダーについて声をかけてきたその子は、
私の指が動き出したこの日、学校を休んでいた。
次の日、登校してきたその子に、リコーダーで指が動くようになったこと、これまでずっと音楽を教えてくれたことに感謝を伝えた。
すると、その子から、お誘いが来ることがだんだん少なくなった。
仲は良かったし、続けて一緒によく遊んだけれど、
音楽については、私から一緒に演奏しようと誘っても、
寧ろその子が乗り気ではなくなっていったように私には見えた。
その理由は確かめていないけれど、私はともかく感謝だった。
そのあと、人とのコミュニケーションが苦手な私は、
コミュニケーションを避け続けて不登校になったが、
その時も、リコーダーは欠かさず続けていた。
高校の音楽の授業では、音楽の先生がリコーダー好きな人で、
アルトリコーダー、テナーリコーダー、バスリコーダー、ソプラニーノリ
コーダーを吹く機会があったから、音楽の授業には必ず出て、
全部吹いて演奏した。
人前で演奏する機会があったら、自分から演奏させてくださいと
手をあげて演奏させてもらっていた。
楽器を練習して、うまく演奏出来たら嬉しかった。
自分がコミュニケーションが下手で、なかなか人に共有できない、
人に伝えられなくてもどかしい自分の想いを、
音楽に載せて演奏しているように思っていた。
20年ぶりに人前で演奏して思ったこと
今回、人前で演奏してみて思ったことは
・私は、ステージ上でも、日常でも、どこでも
音楽を聴くことも、演奏することも、歌うことも、
自分が楽しみたい、と思っていること。
→間違える/間違えない、では、私は楽しくない。
ステージがないと演奏しちゃいけない、は、私にとっては窮屈。
音楽も私の表現の一部。表現の幅が広がるために練習することは喜び。
歌いたい時に歌い、演奏したいときに演奏したい。
・私のしたいコミュニケーションは、
「自分の想いを音楽に籠めることで周囲に伝える」ではなく、
「自分の意思・意志を明らかにするために、身振り手振りも、言葉も、
自分の身体の全てを使って表現すること。
自分の身体を楽器にして、自分の感情を自分にも周囲にも響かせる」こと。
音楽と、私のしたいコミュニケーションを混同させていた。
私はすでに、『身体』という、魂だけでは奏でられない、
自分の楽器を持っていたのだな。
そして、その身体を使って、一方的に聴かせるのではなく、
人と交流し、自分の振動を感じ、相手の振動も感じ、
響きが共鳴したり、旋律がハーモニーを奏でる瞬間に、
大きな喜びを感じているんだ。
オーケストラのチューニングみたい。
『オーケストラのチューニング』
https://www.youtube.com/watch?v=ImT1ViCUIgM
自分が自分のコミュニケーションのやり方と向き合ってこなかったこと
を、失礼にも、音楽を隠れ蓑にして逃げようと考えていた自分と向き合う
と、自分の浅はかさ、身勝手さに、相当にばつが悪い。
だけど同時に、私の叶えたいことがまた1つはっきりした今、
清々しく感じる。
私は、音楽ででも、それ以外の表現ででも、
自分を表現したい、自分を振動させたい、
相手の振動も感じて、不快な響きになっているところは何故かな?と
探求しながら、多くの人とハーモニーを奏でたい。
って、ずっとずっと、思っているのだな。
じゃあ、表現して生きよう。
家事も、仕事も、他の場面も、全て自分を表現する場なんだな。
すると初めて、相手の表現にも関心が湧く。
人生はアートだ。彩り豊か。
登場する色や形や音が少ないとしたら、
自分が色や形や音の幅を少なくしたまま、生きているんだ。
いい悪いではなく、自分に毎日問おう。
お前はその、色や形や音の数で、今日のこの瞬間本当に満足なのかい?
と。
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