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授業アンケートと分かりやすい授業に意味がない理由。

前書き

学校とか役所って、「アンケート」が大好きです。
いじめ問題や、先日の兵庫県知事のパワハラ問題のように、悪いことを炙りだそうとしてアンケートをやることが多いです。

しかし、私は、あんまり意味がないと思っています。なぜなら、

  • アンケートは作った人の「聞きたいこと」しか聞けない

  • 第三者機関がやらないと、正直には書けない

  • 第三者機関がやっていたとしても、多くの人はリスクを冒してまで悪いことを書かない

からです。

「アンケートをやれば民主的である」「アンケートに書けば自分の考えが伝わる」みたいな愚かな価値観は、早くアップデートされてほしいものです。

授業アンケートについては、「良い授業とは~である」という前提がおかしかったら、高評価な人ほどダメな先生、ともなりかねないですよね。

そんな違和感から、授業アンケートが流行ってきた頃、この通信を書きました。


分かりやすいのはいい授業?(本文)

最近の教育業界では、「生徒による授業評価」がトレンドになっている。その心意気や良し。評価に耐えないものを提供する価値はないのだから、こちらも潔く受け止めよう。

とはいえ、あまり気が進むものではないのだが、まあネットの掲示板やTwitterなんかに勝手に書かれるよりは、アンケートの方がよいだろうと思って行っている。

 昨年度、中2・中3合同課外という初の試みを行ったので、初めて授業評価のアンケートを取ったのだが、その時に痛切に感じさせられたことがある。考えてみれば当たり前のことなのだが、「アンケートは作成者が聞きたいことを聞いている」ということだ。つまり、ある程度想定内の答えしか返ってこないし、作成者が考えている「良い授業とはどういうものか」という脆弱な基盤が見透かされてしまうということである。恐ろしや。

 教員になってからの初めの数年、「丁寧で分かりやすい」という、教える以上は出来て当たり前のことを誇りにしていた愚かな時代があった。

しかし、数年経つとから考えが変わり、勉強していない者や学ぶ意志が無の者にとっても「分かりやすい」ような授業はゴミ同然だ、というポリシーをを持つようになった。

そんなものでは生徒を「殺す」教師と、「死んだ」生徒による腐敗臭がプンプンと漂う教室しか作れない。

もちろん、それを生徒に求めるならばこちらもそれなりの知識やスキルが求められる。自分にそんなものが完璧に備わっているはずはないので、まあアンケートの結果くらいは甘んじて受け入れようとするのである。

「分かりやすい板書」の授業を受け続ければ、自分で判断してメモを取る能力は育たない。

「その場できちんと教えてくれる授業」を行えば、誰も予習をしなくなる。

「成功体験」という商業文句の下、簡単なテストを行えば、テスト期間は「遊び期間」となる。

「分かりやすい教科書の解説」を行い続ければ、教養の重要性には誰も気づかない。

もちろん、そんなことが小学生に求められるわけはないので匙加減と切り替えのタイミングが重要なのだが、世の風潮では「子守り」を続けることに大多数が賛同しているようである。だからこんな考えは「詭弁」に感じられるに違いない。

でもハッキリと言える、脆いのはそんな授業で育ったアタマの方だ。

あとがき

生徒は、「分かりやすい」というのを誉め言葉で使います。だから、それが良い分かりやすさなのか、悪いものなのかを見極めなければなりません。

自明なことを語り続けていれば当然のことで、所謂「出来る生徒」は白けてうんざりしています。

そういう先生は必ず「出来ない子をやる気にさせる」とか「これは生徒には難しい」というのですが、見方を変えれば、それは出来る生徒を見捨てているのと同じことだと思いますがね。

あと最後に、先生が「生徒には難しい」という時は、大抵自分にとって難しいからそう思うのです。「分からない」と潔く言えばいいし、分からないなら勉強すればいいのに、先生がそれをしないのでは、生徒は勉強が嫌いなままですよね。

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