「一つに決めない美しさ」を教えてくれた源氏物語と「心づくしの日本語」ー上智大学の過去問から
塾講師をやってたので、思ひ出の入試問題を記録していきたいと思います。
塾講師やめちゃったので、振り返ることが出来るように。
といっても、解法や解説だけではなく、入試問題から得た発見や人生訓なんかをつらつらと書き留めておきたいのです。
1.入試頻出!焦る源氏と苦悩する藤壺
今回はみなさんご存じ「源氏物語」。2007年上智大学の過去問から。
僕が塾講師をして、初めてもった受験生といっしょにいきなり苦しんだ問題でした。
まずこの場面が超絶に面白い。おそらく学校で源氏物語の授業をまじめに聞いてなかった生徒が、リード文を読んで「なんで光源氏の父の妻が光源氏の子どもを産むの?」と不思議がっていたことを思い出します。
義理の母で日本で一番エラい父の妻に手を出してしまった光源氏と手を出された藤壺。特に藤壺はめっちゃ罪の意識に苛まれています。その二人がいる場面で、何も知らない、妻を寝取られた夫でしかも妻を寝取った光源氏の父である日本で一番エラい桐壺帝が、生まれた赤ちゃんを抱っこして、「いとよくこそおぼえたれ(若宮はおまえ(=光源氏)にクリソツだよね)」みたいなことを言うもんだから、そりゃあ源氏の顔色も変わりますよね。若宮と光源氏は実の親子なんだからクリソツに決まってる。少なくとも「おそろし」は、バレたんじゃないか、と一瞬焦ってる。でも「美しい小さい子はみなこんな感じかな」という能天気な桐壺帝の言葉にうれしさや畏れ多い気持ちなんかも感じています。一方の藤壺は冷や汗。たまったもんじゃない。
このあたり、年は忘れましたが早稲田大学も源氏と藤壺が結ばれた直後の源氏の動揺する場面を出題しましたし、確か2006年の九大文学部でも、藤壺の出産が予定より遅れ(そりゃそうだ、帝と一緒の時に懐妊したと周囲の人は思っているはずだから)、バレるんじゃないかと焦る藤壺の様子が出題されました。センター試験99年追試では、後年成長した若宮である冷泉帝が、実の父が光源氏だと知って苦悩する場面が出題されています。
2.「なほうとまれぬやまとなでしこ」の謎
前置きが長くなりました。
本題は次の部分。
さて、ここでとんでもない解釈の問題にぶつかります。
「うとまれぬ」の「ぬ」は、
A 句切れなしの場合、打消の助動詞「ず」連体形
B 四句切れの場合、完了の助動詞「ぬ」終止形
と、両方に取ることができるのです。
ここだけ考えると、
Aだと「れ」が可能の助動詞「る」となり、
撫でし子=若君を「疎むことはできない」、となると選択肢①、
Bだと「れ」が自発の助動詞「る」となり、
若君を「疎まずにはいられない」、となると選択肢②が正解となる。
正解は②ということなんですが、いや、正直どっちとも言えない…。
周りの先生たちに質問しても、正直納得いく説明は得られなかった。
結局、
Aの打消
訳:「疎むことはできない」(範囲大)
>選択肢①「可愛らしくてならない」(範囲小)
「疎むことができない」(マイナスにはならない、ゼロ以上)は、「可愛らしくてならない」(超プラス)と違う場合もある。
Bの完了
訳:「疎まずにはいられない」(範囲小)
<選択肢②「可愛いとは感じない」(範囲大)
「疎まずにはいられない」(絶対マイナス)は、必ず「可愛いとは感じてない」(プラスにならない、ゼロ以下)。
だから②が正解、というのをベン図みたいなのを書いて説明して、今考えればなんじゃこりゃ解説をしてしまった忌まわしい記憶があります。
付け加えで、その後藤壺は出家の道を歩むわけで、罪の意識はとても強いものだった。だから子どもさえも可愛く思えないほどだった。出家というのは俗世を全て捨てること。子どもさえも捨てるのが出家なんだよ、みたいな話を続けるのですが、何しろ自分が納得していないもんだから、あまり説得力がなかったでしょうね…。
今でこそネットで検索すれば、
https://ameblo.jp/muridai80/entry-10974604678.html
などの記事が出てきます。
要は、ある注釈や研究では「打消」、別の注釈や研究では「完了」と、結論が出ていないのです。
本居宣長が「源氏物語玉の小櫛」で「四の句、猶うとまれざる也、にも猶といふにて知るべし。此ぬを、畢ぬと言へるは、猶を俗意の猶に見たるひがごと也」って上智大学と真反対のことを書いてるのを発見した時はなんやねん!と思いましたね。
そんな研究者でも結論出てないのを問題にするなよ、と憤慨しながら、でもこれ面白いな、と思い、「本居宣長の解釈にしたがってこの和歌を現代語訳せよ」みたいな問題を塾の模試で出題したこともあります。今で言う複数資料を関連させる問題のはしりということで。
3.「二つとも正しい」ことの衝撃
塾講師として数年経った頃、ある本に出会いました。
ツベタナ クリステワ著「心づくしの日本語」ちくま新書 2011
僕は「人生に必要なことは新聞と大学入試問題が教えてくれる」という偏った思想の持ち主なので、普段ほとんど本を買わないのです。外国の方がどんなふうに古文を読んでるのかな、とたまたま何げなく手にとったのですが、日本人の書く日本語よりもわかりやすく、丁寧で、そして何より、今まで読んだ(と言っても先述の理由によりあまり読んでないですが)和歌の本の中で最も面白い!
そして、その本の最終章で
袖ぬるる露のゆかりと思ふにもなほうとまれぬやまとなでしこ
の歌が出てきたのです。
なるほど。たしかに。本居宣長も反対の説を「ひがごと」(間違い)って断言してるもんな。
この文章を読んで、ぶん殴られたような衝撃を受けました。
これまで「完了」「打消」どちらか一つに決めないといけないという思い込みを持っていて、答えが出せないことに悩んでいた自分が、「二つとも正しい」という言葉で許された気がしたのです。
そして、両方の解釈を訳として取り入れることこそが、藤壺の若宮を思う憎くて恋しい心情ーまさに人間らしいアンビバレンス(同一対象に相反する感情を抱くこと)ーを最もうまく表現できているではないかと。
和歌の修辞法では掛詞で音として二つの意味を重ねたり、序詞や比喩などで自然と人事を重ねたりしていますが、この歌は文法レベルでダブルミーニングを表現している。何回読んでも源氏物語の凄さには舌を巻きます。
4.一つに決めない美しさ
塾講師としては、入試=客観的評価に関わるものとして、やっぱり答えは一つしかないことにこだわる必要があります。
でも、人間の心情も、一つではなく、アンビバレントだからこそ、いや、もっと複雑だからこそ人間らしいのだし、海の青だって穏やかさの中に激しさが内包されているから魅力的で美しい。
古典や小説などの文学的文章や芸術は、一つに決まらない、ありのままの人間の心や自然の美しさを表現することができるのです。我々はそこに感動を覚えるのではないでしょうか。僕が「罪深い子として疎ましい/愛する子として疎ましくない」の両方ともに藤壺の心情なんだ!と認識した時のように。
新年度から高校国語は新しいカリキュラムとなり、論理的な文章、図や表との関連性などが重視された「現代の国語」と、古典と小説が一緒になった「言語文化」に分かれます。要は、これまで別々だった古典と小説が一緒になることで、それらの時間が削減されていく方向にあります。
しかし、多様性が叫ばれる現在だからこそ、一つに決まらない、多様な価値観と解釈を含む古典や小説が必要だと、個人的には思うのです。ネットでは多様な価値観を見ることはできるかもしれませんが、それを深堀りしていく時間は、やはり国語の、文学を扱う時間なのではないでしょうか。
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