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人を見つめる朝顔ー京大古文「建礼門院右京大夫集」よりその2〜チンパンジーside

前回の続きです。
前回の記事はこちら。

恋人を失った作者が

「人をも、花はげにさこそ思ひけめ」
とつぶやきます。

ここは、
朝顔を何はかなしと思ひけむ
人をも花はさこそ見るらめ
」の引き歌で、

「朝顔をはかないものと思った人間のことを、
 朝顔の花はそのようにはかないものと
 見ていた
のだろうよ」
という、

恋人を失い、世のはかなさを嘆く
作者のつらい心情が描かれる場面です。

擬人法の中でも、
作者と朝顔との関係を客観的、メタ的に見る視点。
それによって、
より「はかなし」という宿命が強調され、
作者のつらい心情が際立って
表現されているのではないかと感じたことを
前回の記事で述べましたが、

それに加えてもう一つ、
なぜこの歌が気になってしまったのか、
語りたい点があります。

進化心理学研究の第一人者、
長谷川眞理子さんの論文から引用します。
高校の教科書にも載っている文章のようですね。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ninchishinkeikagaku/18/3%2B4/18_108/_pdf

 霊長類学者の山本真也らは、飼育のチンパンジー二頭に対し、各自の状況では使い道のない道具をそれぞれに与え、どのような行動が見られるかを観察した。すなわち、あるチンパンジーには、ジュースを飲むためのストローはあるが、ジュースの容器自体は手の届かないところにある。一方、その隣のチンパンジーには、ジュースの容器はどこにもないが、長いステッキが手元にある、という状況である。ステッキを持っているチンパンジーにとっては、ステッキは何の役にも立たない。しかし、隣のチンパンジーにそれを渡してあげれば、隣はそれでジュースの容器を引き寄せてジュースを飲むことができる。さて、彼らはどうするだろう?
 ほとんどの場合、ステッキを持っているチンパンジーは、ジュースの容器を取ろうと苦労して手を伸ばしている隣人に対してステッキをあげようとはしなかった。しかし、いったん、隣のチンパンジーが「ステッキをよこせ。」という明確なサインを出したなら、彼らは躊躇せずにそれを差し出したのである。山本らはこの行動を「チンパンジーはおせっかいをしない」と表現しているが、改めて「おせっかい」とは何かを考えさせて妙である。
 「おせっかい」をするには、シグナルがなくても他者の要求をあらかじめ理解するのみならず、他者がそれを理解していることをも理解しなければならない。「あなた、ステッキ欲しいんでしょ。それは言わなくてもわかるわよ。私、持ってるけど、いらないからあげるわね。」ということなのだ。そしてステッキを差し出してくれるその行為を、相手が、「ありがたい、私の気持ちを察してくれて。」と感じるならば、それは「おせっかい」ではない。「別にそこまでしてくれなくてもいいんだけど。」と思うときがおせっかいなのだ。そこには、両者の間に、「私があなたの気持ちを理解しているということを、あなたは理解している、ということを私は理解している。」、という理解の入れ子構造が存在する。チンパンジーには、それがないらしい。「私はあなたの気持ちが理解できる。」、それだけなのだろう。だから、シグナルがなければステッキをあげないし、シグナルを出さない限り、ステッキをくれなくても怒ることもない。
 言語とは、このような入れ子構造の心の理解のうえに成り立っているコミュニケーションである。言語は決して、「あっちへ行け。」、「これ欲しい。」といった、他者を動かすための単なる信号ではない。他者に「心」があることを承知したうえで、自分と相手の「心」どうしを共有しようとするコミュニケーションである。

長谷川眞理子「進化心理学から見た人の社会性(共感)」
認知神経科学vol.18 No.3-4,2016より

「朝顔を何はかなしと思ひけむ
 人をも花はさこそ見るらめ」

「朝顔をどうしてはかないものと
 思っていたのだろう」という
この上の句がついていることで、

人を見ている朝顔の方は、きっと
「人間ってはかないものだなあ」だけではなく、
「人間って僕たち朝顔のことを、
 はかないって思って見てるよね」
とも思っているように感じたのです。


これが、長谷川さんの論文の
心の入れ子構造」と
共通しているように思えたのです。

「私があなたの気持ちを理解している
ということを、あなたは理解している、
ということを私は理解している」

この心の入れ子構造ー
人間に最も近いであろう
チンパンジーですら持っていない、
人間しか持っていない心の特徴が
朝顔に見えたことで、

朝顔が俄然、人間味をもって見えてくる

もう、ただの擬人法ではなく、
「朝顔人間」ぐらいの勢いで
見つめられているように感じてしまいました。

なぜかほかの単なる擬人法よりも
魅力的に感じた朝顔の歌。

これから朝顔を見る度に、
見つめられているような気がするかも。

そして、僕が枯らしてしまった枝豆も…
「『人間っておれたち枝豆のことを
大切にしたいんだろうけど、
ずぼらだから枯らしてしまって
申し訳ないと思ってるんだろうね。
ホントだらしない口だけのやつ。』
ということを枝豆が思っている」
ということを、僕が思っている、
ということを、枝豆も分かっているわけですかね…。

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