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人を見つめる朝顔ー京大古文「建礼門院右京大夫集」よりその1〜寺田寅彦side

マンションのベランダで植物を育ててみよう!と
もらった枝豆の苗。

ところが僕の住む福岡では
今年は大雨・突然の雷・そして酷暑…
なんだか植物もかわいそう。

というイイワケで、
室内から出ることがなかった枝豆は
未だに実をつけることなく…。

サボテン、食虫植物のネペンテスに続き、
3年連続3回目の失敗。
いやー、植物を育てるのに向いていない…。

朝顔の引き歌

ベランダで育てる植物として
真っ先に思い浮かぶのは、「朝顔」。

去年の京都大学理系の古文では、
「建礼門院右京大夫集」の
すてきな朝顔の話が出題されていました。

次の文章は、建礼門院右京大夫の歌集の一節で、死別した恋人、平資盛と過ごした日々を回想している山里での一齣を綴ったものである。

山里なるところにありし折、艶なる有明に起きいでて、前近き透垣に咲きたりし朝顔を、「ただ時の間のさかりこそあはれなれ」とて見しことも、ただ今の心地するを、「(※注)人をも、花はげにさこそ思ひけめ、なべてはかなきためしにあらざりける」など、思ひ続けらるることのみさまざまなり。

身の上をげに知らでこそ朝顔の花をほどなきものと言ひけめ

(※注)人をも、花はげにさこそ思ひけめ=「拾遺和歌集」の和歌「朝顔を何はかなしと思ひけむ人をも花はさこそ見るらめ」を踏まえた表現

問 傍線部「人をも、花はげにさこそ思ひけめ」を、「さこそ」の指示内容を明らかにしつつ現代語訳せよ。



問に対する答えとしては、注の引き歌を踏まえて

「朝顔をはかないものと思った人間のことを、朝顔の花もそのようにはかないものとして思っていたのだろうよ。」

みたいな感じですかね。

「身の上を~」の和歌は、
「恋人を失ってしまうような自分の運命を本当に知らなかったからこそ、
朝顔をはかないものだね、と言ったのだろうよ」
という、
ほんとうにあの頃は二人が死別することなど
考えもしなかった、というところでしょうか。

上から目線で
朝顔のことをはかないね~言っていたのに、
今考えると、朝顔に同じように見られていた。

恋人との思い出の朝顔を通して
恋人を失った作者の喪失感が述べられている

なんともせつない場面ですね。

一段高いところから見る擬人法

この問題で、僕が惹かれたのが、
朝顔が人を
(はかないものとして)見ている
」という表現。

和歌の中で擬人法が使われることは
よくあることのような気がします。

例えば「なむ」の識別でよく例文として出てくる
伊勢物語の歌

飽かなくにまだきも月の隠るるか
山の端逃げて入れずもあらなむ

(まだ十分に見ていないのに、
早くも月が隠れてしまうのか
月が沈んでゆく山の端が逃げて
月を入れないでほしい)

なんかが思い浮かびます。

ここで思い出したのが、
センター試験の過去問、2003年の国語Ⅰ追試
寺田寅彦の「俳句の精神」。
すいません、古い人間で…

 俳句というものの成立の基礎条件になるものが日本人固有の自然観の特異性であるとすると、俳句の精神というのも畢竟はこの特異な自然観の詩的表現以外の何物でもあり得ないかと思われて来る。
「春雨」「秋風」は日本人には直ちにまた人生の一断面であって、それはまた一方で不易であると同時に、また一方では流行の諸相でもある。「実」であると同時に「虚」である。「春雨や蜂の巣つたふ屋ねの漏(もり)」を例にとってみよう。これは表面上は純粋な客観的事象の記述に過ぎない。しかし少なくも俳句を解する日本人にとっては、この句は非常に肉感的である。われわれの心の皮膚はかなり鋭い冷湿の触感を感じ、われわれの心の鼻はかびや煤(すす)の臭気にむせる。そのような官能の刺激を通じて、われわれ祖先以来のあらゆるわびしくさびしい生活の民族的記憶がよびさまされて来る。同時にまた一般的な「春雨」のどこかはなやかに明るくまたなまめかしい雰囲気と対照されてこの雨漏りのわびしさがいっそう強調される。一方ではまたこの「蜂の巣」の雨にぬれそぼちた姿がはっきりした注意の焦点をなして全句の感じを強調している。この句を詠んだ芭蕉は人間であると同時に、またこの蜂の巣の主の蜂でもあったのである。
 このように自然と人間との交渉を通じて自然を自己の内部に投射し、また自己を自然の表面に映写して、そうしてさらにちがった一段高い自己の目でその関係を静観するのである。
 こういうことができるというのが日本人なのである。
 こういうふうな立場から見れば「花鳥諷詠」とか「実相観入」とか「写生」とか「真実」とかいうようないろいろなモットーも皆一つのことのいろいろな面を言い表す言葉のように思われて来るのである。
 短歌もやはり日本人の短詩である以上その中には俳句におけるごとき自然と人間の有機的結合から生じた象徴的な諷詠の要素を多分に含んだものもはなはだ多いのであるが、しかし俳句と比較すると、短歌のほうにはどうしても象徴的であるよりもより多く直接な主観的情緒の表現が鮮明に濃厚に露出しているものが多いことは否定し難い事実である。そうした短歌の中の主観の主はすなわち作者自身であって、作者はその作の中にその全人格を没入した観があるのが普通である、しかし俳句が短歌とちがうと思われる点は、上にも述べたように花鳥風月と合体した作者自身をもう一段高い地位に立った第二の自分が客観し認識しているようなところがある。「山路来て何やらゆかしすみれ草」でも、すみれと人とが互いにゆかしがっているのを傍らからもう一人の自分が静かにながめているような趣が自分には感ぜられる。

寺田寅彦「俳句の精神」より


日本人は自然と人間を重ねる。
自然に人間を重ね、人間も自然の一部。
短歌ももちろんそうだけど、
主観的情緒が入りがちだよね、
俳句はさらにそれを客観的に
一段高い目で見ることができる

というのが彼の主張。

「短歌が」「俳句が」という違いに関しては
いろいろな考えがあると思いますが、

「飽かなくに」…の和歌は
「まだ月を見ていたいよ」作者の感情ありきで、
「山の端」という自然を
人間と見立ててはいますが、
それに願望の形で語りかけることで、
作者の主観的な感情をより強調している

という構造であるのに対して、

「すみれと人とが互いにゆかしがっている」
なんて言うのは、
人間→すみれ、すみれ→人間の関係性を
両方感じ取ることができる。
ということは、
それを2者の外側から、高い所から見ている。
言い換えると、作者によって、
人間(これも作者自身ですが)と
すみれは対象化される。
つまり自然と人間との関係を
客観的、メタ的に描写している。


という構造を持っているような気がします。

ネットで「古今集 擬人法」で論文検索をすると

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/49/5/49_KJ00009766667/_pdf/-char/ja

の論文がトップに出てきます。

この論文で、擬人法について

擬人法を分類する一つの基準として、 情意的擬人知的擬人の二つに分ける方法がある。 情意的擬人とは、自然を客観視できず自己と自然を融合した表現をとったもの、それに対し知的擬人とは動植物を意識的に人間になぞらえるものと定義される。

平沢竜介「『古今集』の擬人法--その特色と表現世界」日本文学 49 (5), 35-45, 2000

とあります。

まさに
「飽かなくに」の和歌は
主観的な感情を述べるための「情意的擬人」
「すみれ草」の俳句は
すみれの方も人間のことを「ゆかし」と見ている「知的擬人」の表現ととることで、
人間→すみれ、すみれ→人間の関係性を
客観的に描写する視点を獲得している
ということができます。

そして建礼門院右京大夫集の
「朝顔」の引き歌も「知的擬人」
―朝顔を人を見つめる存在として
自分とは切り離された人格を付与し、
朝顔を見つめる人間と人間を見つめる朝顔を
メタ的に見る視点を獲得している、
と言えるのではないでしょうか。

思い出と現在の対比

客観的、メタ的に見るー
すなわち、主観性が失われたことによって、
「はかなし」という言葉の、
自分ではどうにもならない感、
宿命性が強調されたような気がします。

メタ的に見ると、
人間も、朝顔も、
生きとし生けるもの全て、
「はかない」宿命を持っている。

引き歌の直前にある回想シーン
「朝顔を、『ただ時の間のさかりこそあはれなれ』とて見しこと」ー
そこでは、朝顔のはかなさは朝顔の「あはれ」。
自分たちのはかなさのことではありません。
主観的・一方的に
朝顔の花のはかなさと美しさを結び付けた
恋人と一緒に朝顔を見たあの時と、

「人をも、花はげにさこそ思ひけめ」の引き歌ー
今考えると、朝顔も同じように人間のことを
はかない存在と思っていたのだろう。
客観的(メタ的)・相対的に
花と自らが同様にはかないものであるという
宿命を痛感する
恋人を失った今

そのように思い出と現在を
対比させている
ような気がして、
なおさら、恋人を失った今の身の
つらさが染みる、
優れた表現だなあと思うのでした。

僕もオッサンになって、
自分の思いを自由にぶつけていた
若かったあの頃と
社会の中で身動きの取れない現在を
対比させがちです…

さらにこの歌に惹かれた理由は
それだけではないような気がして…。
ぜひ続きをお読みいただけると幸いです。

長い文章を読んでいただき
ありがとうございます。
続きはこちらです。

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