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幸せになるには勇気がいる

こんにちは!いけかよです。
少し前にちょっと人前でわたしの過去の経験などをしゃべる機会がありました。
そのとき「世の中には幸せになりたくない人がいる」ということをお伝えすると、それについて「どういうこと?」と質問が。
その場で軽く回答したのですが、今回はそのときの回答をもう少していねいにこちらで語りたいと思います。

人間の成長はスゴロクみたいな感じ

いけかよは、大学を卒業してから独立するまでの約14年間の間に30回ほど転職をしています。なぜ30回にもなるのかというと、新卒のときからさっそくパラレルワーカーだったから。2つや3つ仕事を掛け持ち(多くはバイトですが)していたので、そのパラレルなラインごとに何度も仕事が切り替わるため、結果的には30くらいの現場を経験してきた、ということです。

そんななかで、いろんな人に出会います。仕事でもそうですが、プライベートでもいろんな人や出来事、学びに出会ってきました。
いけかよは、生きるということは「学ぶ」と同義だと思っています。いろんな経験を通じて学び、人間としての成長をしていく。
この「人間的成長」を「幸せ」とこの記事では定義したいと思います。

「幸せ」の話は前回の記事でもさせていただきました。前回は「幸福は定義するな」と言っておきながらアレですが、今回はある程度の定義をしないと説明が難しいので、あえて定義させていただきます。

話を戻すと、人生の転換期には、仕事だけでなく人間関係もがらっと変わるときというのがありますよね。
仕事も人間関係も、お互いの「成長」のペースが崩れたときに変化する(=別れる、離れる、終わる)ように思います。

それはスゴロクみたいなもんで、お互い3マス目で出会ってから、その後一方は10マス目まで進んで、もう一方は4マス目にとどまっているようなイメージでしょうか。
マスが離れすぎるといっしょにいることは難しくなるし、苦しくなります。長くいっしょにいられる友人というのは、このマス目をある程度同じペースで進めているからなんじゃないかなと思います。
もちろん、進むのが早いのがいいとか遅いのがだめとかではないですよ。このマス目は「価値観」とも言い換えられるかもしれません。価値観が近い人のほうがいっしょにいやすいですもんね。

いけかよはこんなふうに自分と自分の周囲を捉えています。

で、いけかよは仕事も派手に変えてきましたが、人間関係もわりと都度都度ドラスティックな変化をさせてきたほうかもしれません。なので、悲しいかな、幼馴染だとか学生の頃の友人だとかは、ほんとうにほんとうに少ないです。
自然に切れた縁もあれば、あえて痛みを残すような形で「切る」ということもしてきました。

そんな「切る」経験を振り返ると、相手には共通項があり、それが「幸せになりたくない人」なのです。

幸せになりたくない人の持つパターン

もちろんそういう気まずい別れ方をした相手が全員がそうだというわけではありませんし、むしろ向こうから「サヨウナラ」だったこともあるでしょう。

でも、繰り返すパターンというのはあったんです。

こんな感じ↓
最初はものすごく仲良くなる。「親友」みたいになる。でもあるときからちょっとずつ歯車が噛み合わなくなって、「この人こんなこと言う人やったっけ?」と相手の言動に違和感を感じるようになって、わたしが我慢できなくなって、最後にはお互い(もしくは片方が)感情的になって、爆発!解散!みたいなパターンです。

このパターンで離れることになる人は「幸せになりたくない人」でした。
どんな人かと言うと

①なにかの選択肢があると、絶対苦しむことになる方を選んでしまう。
②絶対に選んじゃダメな相手(DV、モラハラ系)とばかり付き合ってしまう。
③すぐ悲劇の主人公になっちゃう。
④その状態がずっと続いている。

なんや、そういうこと?と思われた方もいるかもしれませんね。そうです、「幸せになりたくない人」というのは特異な人ではなく、どこにでもいるであろう人です。

幸せになりたくない人には、上記のような特徴があると思っています。そして、結局はいつも「選択」を間違っているだけなんです。いつも、自分がシェイクスピア戯曲の悲劇の主人公のようになれる選択をするんですね。

シェイクスピアだったらいいけど、それを日常生活で傍から見ていると理解不能なときもあるし、モヤモヤすることもあるし、心配することもあるけど、結局は何を言ってもいつも同じパターンになるなと思うと、こちらも疲れてくるので離れる選択をすることになるのです。

脱却するためには「無意識」を「意識化」する必要がある

彼ら、彼女らに出会うたびに、そして関係が「解散」するたびに、なぜなんだろうといけかよは考えました。最初はすごく素敵な関係だったのにと。そのうち導き出された答えが「幸せになりたくない人」で、それは言い換えれば「人間的な成長を拒否している人」とも言えるのです。

「幸せになりたくない人」の特徴は「苦しい状況を繰り返している」ということです。誤解を恐れずに言えば、まるで自分で不幸を引き寄せているかのようです。
それって言い換えれば「学ばない人」とも言えると思いませんか?

苦しい状況の人に対してとても失礼かもしれない表現でしょう。しかし例えばテストの問題とかでいつも同じ問題を間違って苦しんでいる人を見たら「学べよ!」って思いませんか?
人生はテストの問題ほど単純ではありませんが、でも「学ぶ」ということにおいては同じだといけかよは思います。

とはいえ、人間は同じ過ちを繰り返すものです。いけかよだって偉そうなことは言えません。でも、そこで自分が苦しいのだとしたら、落ちるところまで落ちて「もうイヤや!」ってなったのだとしたら、深い気づきを得てそこから少しでも脱却しようとするでしょう。

そのとき人間は学びますよね。
痛い経験をすればするほど人は成長するはずです。
そして、学ぶということは、選択の繰り返しである人生において、次の選択が変わるということを意味します。

たとえばこれまでいつもDV男とばかり付き合ってしまっていたのだとしたら、次は絶対そんなことしない人を選ぶ、というように。

しかしそう単純にはいかないのも人間の複雑怪奇なところ。「幸せになりたくない人」は、やっぱりまたDV男と付き合ってしまうのです。

(※パートナーシップにおいては、生い立ちやさまざまな複雑な要素が絡み合うので「DVする人と付き合ってしまう人の心理」についてここで書くことはしません。わたしはその分野の専門家ではないですし、「苦しい状況を繰り返してしまう」ことのわかりやすい例えとして「DV男と付き合ってしまう」という「状態」だけを取りあげていることをご理解ください。そういった方々を蔑む意図はありません。)

そうやって、いつも「いや、ちゃうやろ!」と突っ込みたくなるような選択をする、こちらから見ると決してハッピーとは言えない状態を繰り返す、という人を見ていていけかよが気づいたのは、その人たちは「そのパターンを無意識レベルで身につけてしまっているのでそこから脱却できない」ということでした。

つまり、DV彼氏と付き合ってしまう人にとっては「恋愛とはDV相手と付き合うこと」という価値観しかないということ。そこから脱却するためには、無意識レベルの自分の選択を変えなければいけない。世の中にはDV相手以外との恋愛もあるというパターンをインストールしないといけない。そのためには、無意識にやっている「選択」を「意識」し、「変更」しなければいけないということなんですよね。

これってすごくむずかしいことです。
「慣れ」って怖い、ってこういうことです。

たとえば、いつも靴を履くのは無意識に右足からという人は、それを左足から履こうとするといったん立ち止まって考えなければいけないし、まず自分が「いつも右足から履いている」ということを自覚しなければいけない。というか、自分がいつもどっちの足から履いてるかなんて考えたこともなかった!という人も多いかもしれません。

こうやって、「選択」は「習慣」になり、その人そのものを形作っていきます。
そうなってくると、なかなか選択のパターンを変えることって難しくなります。

自分がなにかいつも同じミスをしているとしても、その原因が「無意識の選択」にあるとしたら、原因を突き止めるのはすごく難しい。無意識のものを意識化するっていうことだから。

でも、人生はやはりギフトをくれます。自分の価値観や自信や自分自身がぶっこわれるような出来事というのは起きますから。「そっちじゃないで」と教えてくれるような出来事です。
そこでわたしたちは「今までの自分は間違ってたんじゃないだろうか」とか思うわけです。

そうすると、無意識の自分の選択パターンが顕在化されるようなこともあると思うのです。

これを人は「気づき」と呼びます。
その「気づき」を得て、人は成長し、同じ過ちを繰り返す可能性が低くなることもあるわけです。

しかし「幸せになりたくない人」は、ここで「気づき」を得ないのです。
得ない、は言いすぎかもしれないけど、でも学ばない。つまり行動パターンは変わらなかったりするのです。

で、いけかよは思ったのです。
それって、めっちゃ強いってことなんじゃないかと。
こちらから見るとしんどそう、と思うような状況に長いこと身をおいていられるのは、本人は嘆いているけどむしろめっちゃタフで鋼のメンタルなんじゃないかと。
なかなか自分自身がぶっ壊れないということなんじゃないかと。

だから、それはそれで、幸せなことなのかもしれないとも思ったのです。それを、いけかよはいただきたくない状況だというだけで、彼ら彼女らは「そうしたくてしている」かもしれない。
これは嫌味でもなんでもありません。
はたから見ればしんどそうだったとしても、そして本人が嘆いていたとしても、その人の選択の結果であり、そこで耐えられているということは、その人に対してその選択を尊重することこそあれど同情したりましてや哀れんだりすることなんか、とても失礼なことなのかもしれないと。
親に注目してほしくて熱を出す子どものように、それが彼ら、彼女らなりのサバイバルスキルなのかもしれないのですから。
そこに良いも悪いもない。

「脱学習」が必要になるタイミングがある

とはいえ、違う結果を得たいなら、やっぱりパターンを変える必要があると思うのです。

幸せになる=人間的成長をとげること、と言いました。
気づいて、学んで、違う道を選ぶことは成長と言えるでしょう。

成長のプロセスにおいては、自分の弱さやずるさと向き合わなければいけないことが必ずあります。きっとそれもそんなに簡単なことではないでしょう。
「無意識の選択パターンを意識化する」のプロセスは、この「自分の弱さ」にも同じことが言えます。なんならもっと難しいかもしれない。普段はとても上手に隠されていますから。だっていちいち自分の弱さを自覚していたら、わたしたちはきっと気が狂ってしまうでしょう。「自分は弱い」という自覚は、つねに何もしなくて良いということの体の良い言い訳にもなってしまうかもしれないし。
でも、弱さやずるさのない人間なんてほとんどいないはずです。

だからこそ、幸せになるには勇気がいるということです。
それは自分の弱さやずるさに向き合う勇気です。
いままで大事に抱えてきてしまった選択のパターンを捨てる勇気です。
「試されている」というときに逃げない勇気です。
未踏の地を踏む勇気です。

そのために、逆説的ですけど「脱学習」が必要だったりします。
前述のように「無意識に身に着けた選択パターンを変える」ということと同義です。過去の経験で慣れてしまったパターンから少しでも踏み出す先を変えてみる。
今でいう「アンラーン」という概念に近いかもしれません。過去の経験は消えることはないけれど、いったん更地にして、価値観を再構築するイメージ。

そうやって積み重ねられた新鮮な経験は、きっと違う景色を見せてくれるはずなのです。達成感とか、充実感とか、新たなつながりとか。

それってきっと「幸せ」と言えると思うんです。

幸せって難しいのかもしれない

とはいえ、です。
なにを「幸せ」とするかは、その人次第。幸せの形は十人十色でしょう。他人がとやかく言えない領域だとも言えます。

いけかよはすべての人が幸せになるために生まれてきていると思っていますが、その「幸せ」が、とある人からみるとまったくそうは見えないということは往々にしてあります。

世の中には不条理なことも悲劇的なことも非論理的なこともたくさんあるし。

しかし、当人がそれに「納得」している場合は良いのだけど、当人がそうでなくて嘆いたり悩んだりしている場合、かつその状態を繰り返している場合、その人は「幸せになりたくない人」だといけかよは思っています。

かつてのいけかよは、そういう相手に親身になって相談にのったりいっしょに泣いたりいろいろしていましたが、結局はそこまで慈悲深くないいけかよは、あるところで「もうええわ」となり、「解散」が起きていました。

ということは、いけかよがそういう人に何度も出会ってきて苦い経験をしたということは、自分のなかにもその人たちと同じ要素があったからかもとは思うんです。
だから全然偉そうなことは言えません。

でも、そういう人たちも含めて、いろんな出会いのおかげで学ばせてもらったのです。
「幸せになりたくない人がいる」ということじたい、気づかせてくれた人がいたということなんですよね。

だから、それがその人にとっての「あり方」なのだと理解することで、大きな軋轢を生むようなことはなくなりました。いけかよもちょっと「成長」したのです。

でも、本当の幸せって「自分が幸せになることで、周りも幸せになること」だと思うんです。正しいとか間違ってるとかの尺度は好きじゃないんですが、あえて言うなら「正しい幸せ」とは、自分が幸せになって周りも幸せになっている状況だと思うのです。

だから、自己犠牲とかは違うし、周りが疲弊するとかも違うよねって思います。
でも意外と「自分が幸せで周りも幸せ」ってすごく難しいことでもあるかもしれない。そう思うと、やっぱりわたしたちは「じゃあどうすればいいんだろう」って、自分の無意識の行動パターンをできるだけ意識化して、変えなきゃいけないポイントを探す必要があるかもしれないのです。

ていうか、いけかよには絶対あります。

だから、幸せって難しい。
そう思ってしまうことは少し悲しくもあるけれど、「難しい」問題ほど、解けたときの達成感って大きいはずですよね。

だから今日も今日とて、わたしたちは生きる=学ぶのです。

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)


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