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幸福を定義するのは人生に対して失礼だ

こんにちは!いけかよです。
この「よむエラマ」の運営母体であるエラマプロジェクトのコンセプトは「『わたし』の『豊かで幸せな生き方』を探求する」です。

それゆえにいろんなワークショップは、一見すると「あなたにとって幸せとは?」と定義する場所だとエラマは思われがちです。

が。しかし、今回いけかよがお伝えしたいのは「幸福は定義してはいけない」ということ。
エラマプロジェクトのコンセプトにちょっとケンカを売るようなテーマになっておりますが、別にケンカをしているわけではありません!(笑)

いけかよは、例えば「昼下がりにほっと一息つくために飲むコーヒーが最高に幸せ」とかっていう感覚を否定したいわけではもちろんありません。
その感覚はぜったいに必要ですし、そういうものの積み重ねが「幸せな人生」ですから。

でも、気をつけたいのは、「自分にとっての幸せはコレ」と定義することによって、「コレ」以外のものは「幸せじゃない」と定義してしまう可能性があること。
そして、往々にしてこの「幸せ」というやつは一見「そうじゃない」ことの中に隠れていたりするものなんじゃないかなって思うのです。

人生はわかりやすくない

このよむエラマは、「エラマ的幸せカタログ」というコンセプト。ここを読んでくださった方が「そういう考え方もあるのか〜」とか「こういうやり方もあるのか〜」と、さまざまなライターさんたちの価値観を通じてご自身の価値観を広げていただけたら、という思いで作っています。
言い換えれば、「『幸せ』というものの考え方カタログ」とも言えましょう。

みんなのコラムを読めば読むほど「幸せ」って本当に考えれば考えるほど広い。一杯のコーヒーにも、1冊の本にも、たった5分の瞑想にも、幸せは詰まっています。

でも、そういう「わかりやすい」ことばかりではないのが人生。

「幸せ」とは、状態を表すとともに「感情」も表すと思っています。
人間の感情はほんとうにグラデーションがいっぱいありますよね。

どきどき、ウキウキ、ワクワクもあれば、ソワソワ、モヤモヤ、ジメジメ、とかもあるし、チーン。とかガーン。とか、ズーン。とかもある。
(日本語の擬音語ってなんて表現豊かなんでしょうね)

これらは人間にとって決して望ましいものばかりではないし、生きていればいつもいつもワクワクウキウキできるかっていうとなかなかそうはいかない。

「幸せ」から連想される感情って、安心とか心地良いとか楽しいとかだと思うんですが、その逆の不安とか居心地悪いとか苦しいなんていうのは、きっと多くの人はあまり味わいたくない感情でしょう。

しかし、ではそれはイコール「不幸せ」なのか?
きっとそうではないはずです。

「どうにかできること」に目を向ける

不安とか居心地悪いとか苦しい気持ちがまったくない人生ってたぶんありえないし、むしろ味気ないかもしれません。

そう、わたしたちは「幸せ」を感じるときにどうしてもその対比になるものがないと、ついその幸せの価値をわからなくなってしまうんですよね。

毎日毎日平穏無事で衣食住に足りていて、生活に困らないだけの収入もあり、人間関係にも恵まれている。最高の人生です。でもそれが当たり前になってしまったとき、それは「幸せ」ではなくなっていく感じがしませんか?
なぜならあって当たり前のものにわたしたちはいちいち喜ばないようになっているから。それは生き物としてそういう性質ということなので、感謝の気持ちがないというわけでは決してありません。

でも、突然の病気や怪我や失業や失恋など、ダメージの大きな出来事というのは人生には起こります。その渦中にいるときに幸せを感じられるかどうかは、ちょっとむずかしいかもしれませんよね。

この、つらいときの1日ってなんであんなに長いんでしょう。過ぎてしまえば一瞬だと知っているのに、永遠に楽にはなれないんじゃないかとすら思ってしまいます。

具体的にできることがある場合はまだ楽かもしれません。失業したなら次の就職先を探すとか、怪我なら病院に行くとか。でも、どうすることもできないこともあります。

たとえば、いけかよは昨年母親が大きな怪我をして長期入院しました。「一生杖か車椅子かもしれない」と言われ、頭は真っ白に。一人で家のことすべてをしなければいけなくなった父を助けたかったし、母親にも会って励ましたかった。だからすぐ実家に帰りたかったけど当時は緊急事態宣言の真っ最中で、県をまたぐ移動は病院側から禁止令が出ていた頃です。どうにかしたいのにどうにもできないという苦しさと無力感、けっこう辛かったです。

こんなふうに、自分ではどうにもできないことってありますよね。

でも、こんなときにも人は「幸せ」を見出すことはできます。

人間の不幸は「自分ではどうしようもできないこと」をどうにかしようとすることから始まると、誰かが言っていました。じゃあ逆に考えれば「自分でどうにかできること」に目を向ければ、それは幸せの始まりとも言えます。

人生はわたしたちの味方

人生において自分に起きる出来事は、すべて自分にとってベストなことがベストなタイミングで起きているといけかよは思っています。これに根拠はありません。でも、わたしがそうだと思っているから、そうなんです!(笑)

だからわたしは過去を悔やんだりしません。後悔とかはちょっと考えてみてもあまり思い浮かびません。まあ、忘れっぽいからだけかもしれませんが(笑)。

自分に起きる出来事は、人生が自分にくれたギフトだとも言えます。それは、わたしたちの勝手な価値観で良いとか悪いとかラベリングしているだけで、ものごとに「良い/悪い」というのは本来ない。すべてが自分にとっての贈り物で、余計な経験なんてないのです。

ハッピーな出来事だったら、それこそ本当に「ギフト」だと思ってよろこんで受け取りますよね。恋人ができたとか売上が上がったとか欲しい物を買えたとか。

でも、そうじゃない出来事だってギフトです。だって、その経験から学んで成長する機会を与えられているんやから。
辛いことが起きたときというのは「いままでのやり方を変えるときだよ」「気づくべきことがあるよ」「取り組まないといけないことがあるよ」というサインだと思っているし、過去に自分が窮地に立たされたときや心身を病んだとき、思い出してもすべてそうだったと言えます。まあ、考えてみれば当たり前ですよね。

そして、何より、辛い出来事はどれだけ自分が幸せだったか、かけがえのないものに囲まれていたかを気づかせてくれる。つまり、これがまさに「幸せを知る」という経験だと思うのです。つまり、一見辛いことのように見える出来事は、幸せを知るためにあるとさえ言える。そう考えると、どんな出来事でも幸せだと言えるんじゃないでしょうか。

とはいえ、もちろん辛い最中にそんなにすぐ気持ちを切り替えて「人生ありがとう」とは思えないでしょう。そこで大事なのが、前述した「自分でどうにかできることに目を向ける」なのです。
どんなにどうしようもないように思えるときでも、自分が変えられることはあります。だからこそ、きちんと自分が変えられることにフォーカスできているかが重要です。

失業したとして、その会社に戻ることは、変えられないこと。
でも、次の就職先を探すのは、自分が変えられること、というように。

去年、母親の件でいけかよは強い無力感を感じたけど、そこで自分に出来ることはなにか、母親がもっとも喜ぶことはなにかを考えたとき、フォーカスしたのは「自分が元気で楽しく生きていること」と「仕事を充実させること」でした。

自分が変えられることはなにか?に目を向けるということは、人生が差し出したちょっとキツめのギフトを受け取って、幸せへの一歩を踏み出すことにほかなりません。

人生はきっといつもいつもわたしたちの味方で、幸せになるように導いていてくれるはずといけかよは思っています。だからわたしたちが「嬉しい〜たのしい〜」と思うようなギフトだけ受け取って、そうじゃないものを拒むことは、人生に対して失礼なんじゃないかと思うんです。それが「幸せを定義するときに気をつけないといけないこと」という意味。

自分が定義する「幸せ」の外にあるものにも、いまは気づかないだけで幸せがきっとある。
そしてキツめのギフトは、一見まったく幸せじゃないと感じるところからびっくりするような展開を連れてくる。
「あの経験がなければ、いまの自分はない」という経験がみなさんにもあるはずです。
それです。

振り子の法則で、大きなハッピーを受け取ろうと思ったら大きなダメージも受け取らなければならない。ちょっとしんどいけど、これこそが「人間をやっている」ことの醍醐味だとも言えると思いませんか?

そう思うと、なんか生きてるってだけで、幸せしかない。
自分の幸せなことリストを作ることは素敵なことです。でも、幸せを「定義」しすぎてその外にある大きな幸せの種を受け取らないことはめっちゃもったいないことです。

人生を信じて。受け取りましょう、ギフト。

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)


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