見出し画像

「言葉にする」は弔いに似ている

こんにちは!いけかよです。
ちょっとごぶさたになってしまいました。

そのあいだに「言葉にすること」について、いろいろ考えさせられる出来事が続いたので、今日はそのことを書きたいと思います。

気持ちを言葉にできなくて泣いちゃう娘ちゃん

少し前に、友人と飲んでいたときのこと。
思春期の娘さんがいらっしゃる彼女は、こんなことを言ってたんです。

「娘がめちゃくちゃ情緒不安定で、学校でいきなり泣いちゃったりするんだよね。
でも本とか読まないから言葉を知らなくて。
自分の思いを表現できなくてどうしていいかわかんなくなって泣いちゃうみたい」

思春期ってそんななの…?!
自分の気持ちを言葉で発することができないかわりに、涙でそれを押し出してるのかな?と思ったりしたのです。

じゃあ自分が思春期のときってどうだったかを思い出してみました。
わたしが小学校高学年から中学校にかけての頃って、けっこう文通や交換日記が流行ってたんです。
小学生のときにはバスケをやってたから、試合で出会う他校の子たちと友達になって文通したり。
もちろん、同じ学校の友達や先輩や後輩と、とにかくいろんな人と交換日記してました。

だから今から思うと、かなり言葉を書くということを当時からしてたってことですよね。

親には言えないようなこととか、もちろん好きな子のこととか、ちょっと辛い思いしてることとかムカついたこととか、交換日記や手紙にたくさんたくさん書いていた気がします。

もちろん、今だって小学生、中学生はLINEとかでめちゃくちゃやり取りしてると思うのだけど、LINEはスタンプとかもあったりするし、スタンプをつかうことは「表現」とは違う気がするんだよな、と思ったりもします。

そう思うと、当時の自分はわりと自分の思いや気持ちをちゃんとつかまえられていたのかなって思うんです。
わたしが小学校や中学校のときって、実は個人的にはちょっとつらいことが多かった時期でもあるのですが、交換日記や手紙で自分の気持ちをちゃんと吐き出せていたからこそ耐えられたのかもしれない、と今になって思うのです。

言葉を知ったら喧嘩する必要がなくなった

お仕事のなかで、とある塾の先生のお話を聞く機会がありました。
その先生は、読書を通じて国語力をつけることに力を入れている方だったのですが、その方向性に舵を切るきっかけになったエピソードとして興味深いことをおっしゃっていました。

かいつまんで言うと、喧嘩ばかりしていた子が読書をするようになってから喧嘩をしなくなった。なぜなのかを本人に聞いてみたら、「本を読んで言葉を知ったから自分の気持ちを相手に伝えられるようになった」のだと。

それまでは、気持ちを伝えられない代わりに手が出たりしちゃってたんでしょうね。

そこでやっぱり、気持ちって表現しなきゃいけないんだなって思ったんです。
そして、理解してほしいならきちんと伝えなきゃいけない。
そのために一番便利なのが、きっと言葉なんですよね。

言葉じゃなくても伝えられることもありますもちろん。表情とかもそうだし。

他にも、絵でも音楽でもダンスでも伝えられる。でもそれって、リアルタイムのコミュニケーションにおいては、ちょっと効率が悪いですよね。

わたしたちは、他者に「理解」されずとも、少なくとも「受け入れられる」ということがやっぱり必要です。
日本人には「察する」「空気を読む」という特殊能力(と、在日外国人や外国人との交流が多い人はよく言うよね)があるけれど、やっぱりちゃんと伝えないとわからない。

つまり、言葉にして発するということ。
そこから「社会」が始まるとすら思います。

表現することは昇華すること

先日行われた、エラマプロジェクトのライターシップ講座は、わたしにとっても侑美さんにとっても、非常に大きな意味と意義と情熱を感じた回でした。
(レポートはぜひこちらから!)

ライターシップ講座では、ブランディングも同時に学ぶという観点から、自分自身の過去やルーツを深堀り、他の参加者とそれを共有するという時間を設けています。

初めて会った相手と自分の過去を共有するというのは、とてもエキサイティングでセンシティブなことなのですが、不思議とスルスルっと語れてしまう、ということが起きます。

そのとき自分がどんな思いだったか。
どんなことをがんばったか。
どんな後悔があるか。
当時は言えなかった思いも含めて、聴いてくれる他者がいるからこそ引き出される思いがあり、それがそこではじめて言葉になるのです。

ここで行われていることっていわゆる「傾聴」にほかならないのですが、そんな小難しいことは脇において、参加者のみなさんは一様にとてもとても深いところに入っていかれるのです。

その後、聴いた側がそれぞれフィードバックを行います。
それってすなわち「自分を受け入れられる」ということ。
そこで初めて「ああ、自分にはそんな思いがあったのか」と気づくこともある。

これらはすべて言葉が媒介になって、想いが呼応しあうんです。
これって、傍から見ている側からしてもとても感動的な瞬間です。

それを経てはじめて、「書く」という作業に向き合うんです。

そこまで深ぼらないと「その人にしか書けないもの」って出てこないといけかよは思います。自分の過去や自分の本当の思いって、向き合いたくないこともあるけど、そこにきちんと対峙した人の言葉ってやっぱり重みが違うんです。

結果的に、最後の書くワークではとてもセンシティブな経験や、それまで表現していなかった自分を「言葉」という道具を通じて表現されているみなさんがいました。

それももちろんとても感動的で、そして書いたご本人はとても晴れやかで、なにかが昇華していくような思いを全員が共有したのです。

「気が済む」ことが「弔い」

と、いうようないろんな「言葉にする」ことの意味や必要性を痛感するエピソードが続いたのですけど、実はわたし自身にもそれは起きていました。

昨年末から少しわたしは業務過多な状態が続いていました。
単純にタスクや考える仕事が多いという状況です。自覚しているストレスはそれだけでした。意地悪な人もめんどくさい人も、そういうややこしい問題はなにもなし。

でも、あふれるほどの業務はじわじわと心身に影響を及ぼしていたようで、体の色んな所に目に見えるレベルの症状が出始めました。

湿疹とか、じんましんとか、熱とか。

それって、結果的には自分の体の声にぜんぜん耳を傾けていなかったから起きたことでした。
きっと、ほんとは「休みたいよー!」って、体は言っていたんです。思っていたんです。

わたしは完全に頭と心が切り離されていた状態で、目の前のタスクに取り組んでいました。だって面白かったしわくわくしてたしめっちゃ自分がやる意味を感じていたから。

でも、仕事以外でも人生にはいろんなことが起きるし、それも自分の心と頭をすごく使うし、それらも重なってかなりキャパオーバーな状態に。

体がおかしくなってきてさすがにヤバいと思って、いろんな人に助けを求めました。
そこでやっと気づいたのが、わたしが自分の心と体にぜんぜん意識を向けていなかったということです。言い換えれば、全然かまってあげていなかったということ。

ほんとうは休みたいとか、自分で自分をもっと褒めたいとか、怖がっているものがあるとか、不安があるとか、受け入れたくないものがあるとか、いろいろな自分の気持ちを、ぜんぶ自分のなかで押し込めて見ないようにしていたんですよね。

わたしは、蕁麻疹で顔が腫れてはじめて、押し込めていた気持ちに向き合う機会を得たのです。さすがにそこまでくると、自分と向き合わざるを得ませんでした。

ああ、そうなのかと、少し立ち止まって自分を見つめるといろんな気持ちが抑圧されていることがわかりました。

自分のなかにそんな気持ちがある、と知ることで、それを少しづつ自覚できるようになりました。
それって、「言葉にする」ということと同じです。
自分はほんとうは●●したいんだ、と気づくこと。気づくと、自分のなかに気持ちが言語化されます。

そうすることではじめて他者にも「わたしはこうしたい」「わたしは●●だと思う」と伝えられて、それってわたしにとってはめちゃめちゃ大きな癒やしだったんです。

そうすると、なにか胸のつかえがすうっととれていく気がしました。

そのとき思ったのは、「言葉にする」って「弔い」みたいだなということ。

冒頭の友人の娘ちゃんも、言葉を知って喧嘩しなくなった子も、ライターシップ講座で思いの丈を発した参加者さんも、きっと「言葉にできない思い」「押さえつけている思い」があったはずなのです。

でも、そんな思いをずっと押さえつけていたら自分がかわいそうです。

わたしは、すごく「ああ、ごめん、あたし」って思いました。
「休みたいという思いも、疲れたという思いも、もう考えたくないという思いも、ずっと無視し続けてきてごめんねあたし」って、思ったのです。

すると、それらの思いってまさに「成仏」していく気がしたのです。

思いや感情って、わたしたちがそれを自覚するために湧き上がります。それを相手に伝える=コミュニケーションこそが、社会で生きるということ。

表現されず押さえつけられた思いは、良かれ悪しかれ溜まって淀んで爆発してしまうような気がします。

だからこそ、わたしたちはまず自分の気持ちを自覚しなければならない。
それは、まずは自分のために。自分の気持ちに向き合うということはすなわち自分を大切にするということです。

そして、発される必要がある「思い」「感情」は、まるであの世に旅立っていく魂のような気がします。
言葉や感情は目に見えない。だからこそ、自覚して言葉にしてちゃんと送り出してあげないといけないですよね。それってまさに「弔い」だなと。自分の中から言葉=「言霊」を出すということだから。

それって、個人的な感覚で言えば「気が済む」っていうことです。
めちゃくちゃ単純だけど、大事なことだと思いませんか?
この世に執着があるからあの世にいけない地縛霊は、きっと「気が済んでない」からですよね。それと同じ。

自分はこんな気持ちだったんだって、向き合いたくない感情こそ、弔いが必要な気がします。
すなわち、自覚し、表現すること。
そしたら、その気持ちはちゃんと弔われて成仏するはず。

そうすることではじめて、自分自身も気持ち新たに、再び前を向いて歩いていけるような気がするのです。

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?