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わたしたちは世界に参加しすぎているかもしれない

こんにちは!いけかよです。
ここ何年か、特にやはり2020年からでしょうか、世の中がずっと不安定で混乱していて、先が見えないような状況になっているように感じるのは、わたしだけではないと思います。
もちろん2019年までだっていろんなことがあって、果たして世の中が安定していたときはあるのか?と問われれば、それはそれで「ウーン」となってしまうのですけど、今日は適度に「引きこもった」ほうが良いかもしれないと思ったので、そのお話です。

多くの人は世界に参加しすぎ

タイトルにある「世界に参加」という表現は、わたしなりの感覚なのですが「自分が社会の一員である」という状態を、もっと広義にした感覚です。
例えば、独立前のパラレルワーカーだったときのわたしは、貯金がないことの不安も相まって、仕事をしていない状態というのがものすごく怖かった。それはいわば「おいてけぼり」の感覚です。「社会から取り残される」という意識がすごくありました。これはわかっていただける方多いんじゃないかと。

じゃあ「世界に参加」はどうかというと、仕事という枠だけでなく、もっと大きな状態です。自分がこの世界に生きている、居場所がある、平和を願っている、社会情勢を見守っている、コミュニティがある、大好きなものがある、愛する人がいる、というような、意識が外を向いて前向きに生きられている状態が「世界に参加している」という感覚なのです。
もちろん、葛藤したり悩んだりはたまた誰かとバトったりしているというように、決して前向きとは言えない状態だったとしても、それって「善くありたい」という気持ちの裏返しだと思うので、結局は「前向きに生きている」と言えるのだと思うのです。

「世界に参加する」の対義語は、わかりやすく言えば「引きこもっている」です。「世界」という、自分の「外」には向かず、自分の「内(中)」にずっと向いている状態。世界に参加していない状態は、言葉どおりの引きこもり状態や、内観し続けていたり、人里離れて仙人のようなくらしをしていたり、コミュニケーションや情報をシャットアウトするような状態を、わたしは意味しています。

「世界に参加」も「世界に不参加」も、どちらもグラデーションはあれどそんな感じで、どっちが良くてどっちが悪いとかは、ないんです。エラマプロジェクトで提唱している「マイタイム」などは、まさに世界から離れている状態ですし。
でも、最近は自分も含めて多くの人は「ちょっと世界に参加し過ぎかも」と思うようになったのです。

「世界」は自分には関係がない

SNS離れなども含むデジタルデトックス。すっかりこの言葉も定着しましたよね。
コロナ禍が始まってからは、メディア(ニュース)デトックスもその重要性を謳う書籍が注目されたりと、意図的に「世界に参加しない」方針を示す意見が見られるようになってきました。

わたしたちエラマプロジェクトの飛騨高山にて行うリトリートプログラムなどは、まさに「世界から離れる」的な要素を多く含んでいます。

それは、ずっと頑張ってると疲れるから、自己肯定感が下がるから、頭を使いすぎるから、休息が必要だから、など、いろんな理由があってのことで、それは正しいと思うんです。

でも、わたしが「みんな世界に参加しすぎかも」と危惧する理由は、それらとは別の理由もあります。

みなさんは「自分の意識が自分の人生を作っている」という話は、一度は聞かれたことありますよね。え、なにそれちょっと怪しいかも、と思ったそこのあなた、まあもう少しお付き合いください。

スピリチュアルや精神世界のお話でも、「自らに起こる出来事は自らが引き寄せている」という旨の話は必ず出てきますね。でも今回はそんなガチの話をしたいわけではなく、もっと簡単なお話です。

自分の意識が変われば、世界の見え方も変わります。
わかりやすいと思うので、恋愛に例えてみます。
たとえば、大好きな人と晴れて思いが通じて付き合えたとしましょう。きっと毎日ウッキウキじゃないですか?
街を行き交うカップルたちを見ても、きっと「お互い幸せだね♡」なんて余裕をかましているでしょう。
なんだか花なんか部屋に飾りたくなって、それまでは意識すらしていなかったいつもの駅の花屋に目が止まるかもしれません。
愛されてる気持ちでおなかいっぱいで、ごはんもちょっとでいいかもしれない。
早朝にゴミ捨て場でギャーギャー騒ぐカラスにすら「アタシを祝福してくれてるのね」と思うかもしれません。

じゃあ逆に、大好きな人への想いが遂げられなかったとしましょう。もしくは、大恋愛に終止符を打たねばならないとき。
どれだけ外がいい天気でも、気分はドドメ色かもしれません。
街を行き交うカップルたちを見たら辛いだけかもしれませんし、なんなら「おまえらだっていつかは別れるんやからな!」と悪態のひとつもつきたくなりましょう。
もちろん花なんか買う気にはなれませんよね。
満たされない気持ちから過食したり酒を飲みすぎたり、逆に全く食べられなくなる人もいるかもしれない。
早朝にゴミ捨て場でギャーギャー騒ぐカラスに至っては、撃ち殺したい衝動に駆られるかも。

いかがでしょうか?ちょっと極端でマンガみたいですけど、同じ景色を見ても自分の意識が違うだけで捉え方は全然変わるということ、わかっていただけると思います。

つまり、自分の外である「世界」では、何が起こっていようと自分の人生にはあまり関係ないということなんです。世界がどんなものかを決めるのは、その世界を見て自分がどう受け止めるかという「意識」次第だから。

幸せは遠くにはない

自分の意識、ここでは「メガネ」と言い換えます。
バラ色のメガネをかけていれば世界はバラ色に、ドドメ色のメガネをかけていれば世界はドドメ色に見えるということ。

いやいやちょっと待てよ、今のこのご時世で、日本の経済ボロボロで、東欧では戦争なんか起きちゃって、感染症もまだまだ警戒しないといけないのに、どうやったらバラ色になるねん!とお思いでしょうか。

そう、だからその状態が「世界に参加しすぎ」ということ。
世界に参加しすぎている状態って、自分も含めてですけど、視野が遠くにあるんです。世界に参加すればするほど、意識は大きく膨らんで、経済とか社会情勢とか環境問題とか、そういうところに目が向いていきます。
もちろん、それって悪いことではありません。世界への参加の仕方は、決してワールドビジネスサテライトを見ることだけではなくて、自分の意識が社会や他者に向いている状態を指し、それは生きていく上で重要なこと。でも、それの「やりすぎ」が良くないと思うんです。理由はシンプルで、視野が遠ければ遠いほど、ハッピーになるニュースって見つけるのが難しいからなんです。

それは「幸福」というものの性質に関係しています。幸せって、基本的には形のあるものではなくて人間の感覚なので、「世界」とは対局に位置する自分の「内」で感じ取るものなんですよね。つまり、自分が直接見て触れて感じられる距離にしか、幸せは落ちてないと思うんです。
ごはんがおいしかったとか、友達の何気ない一言に勇気づけられたとか、お風呂が気持ちよかったとか、飲み会最高に楽しかったとか、大好きな推しを見て元気をもらったとか。
これらはすべてわたしたちが自分の五感を通じて心で感じるものです。

そして、それってまったくニュースバリューのあるものではありませんよね。わたしが今日どれだけ美味しいワインを飲んで酔っ払って踊って浮かれていても、そんな幸せがニュースになることはありえないけど、でも幸せってそういうものじゃないでしょうか。

「世界」には他者も含みます。パートナーや友人や家族、同僚、経営者の方なら自社のスタッフなど、関係が近ければ近いほど考えずにはいられないですよね。でも、その人たちのこと「ばかり」を考えているのって、ちょっとバランスを欠くという感覚は、わかっていただけるかと思います。

だからこそ、逆説的ですが自分の「内」に目を向けて、自分のご機嫌取りをしてあげることによって、ドドメ色のメガネを少しでもバラ色に近づける、というとりくみが先なのです。そのために、ときどき世界からは適度に距離をおいたほうがいい。真面目な人ほど「善く在りたい」という思いからどんどん世界にのめり込んでいって、結果的に自分の無力感にさいなまれるという悲しい結果を引き起こすからです。

現実はあなたの意識が決める

この世界はいったいだれが操作してるのでしょう?そんな陰謀論めいたものが囁かれたりもしますけど、それだけみんなが不安になっていて、自分が苦しいことをだれかやなにかのせいにしたいという、ドドメ色のメガネ状態なのかもしれないと感じます。これはもちろん、自分も含めてです。

深刻な現実やニュースから目を背けてはいけない、と思う方も多いでしょう。

でも、わたしはそうは思いません。現実を直視することと、自分の心を守ることは矛盾しないからです。むしろ、現実を直視するためにこそ、自分の心を守り、自分のご機嫌をとって、バラ色のメガネで世界を見なければ、どんどん苦しいネガティブループになってしまうと思うのです。
真面目に世界に参加しすぎて、いろんなニュースや人の粗に目が向いて、たくさんの人が怒りや悲しみを増幅させてしまう状況って決して幸せとは言えません。そうなるくらいなら、一度世界から身を引いて、自分の内にこもって、何が悲しいのか、何が腹立たしいのか、きちんと見つめてみるほうがずっと大切です。

自分がすごく苦しいとき、つまりはドドメ色メガネ状態のとき、いったん世界から目を背けて自分の内面に向き合ってみると、なぜ自分がドドメ色メガネをかけてしまっていたのかがわかるかもしれません。つまり、それは思い込みだったり、過去のトラウマだったり、自分を守るために鎧を着ていたりといったことに気づくかもしれません。それってつらいけど、きちんと向き合うことはすごくすごく大事なことです。
心に傷を負っていない人間はいません。傷ついていても人は生きていけるけど、もしできるなら少しでもその傷は癒やされていたほうがいい。

自分のご機嫌をとること、傷を癒やすことにちょっとでも専念できたら、結果的にメガネがバラ色に近づいて、改めて世界を見たときに見え方は必ず違うはずなのです。
このとき、世界はほぼ変わっていません。変わったのは、あなたのメガネ=意識だけ。

往々にして、世界はわたしたちの手に負えません。個人の力で戦争はとめられないし、環境問題は解決できないし、めんどくさい上司は今日もあなたをイラッとさせるでしょう。
でも、自分の意識なら変えられる。それが、結果として世界を変えると思うのです。

映画「もののけ姫」でアシタカは「曇りなき眼で見定め、決める」と言いました。
わたし、曇りなき眼で見定めるのは自分の内側だけでいいと思っています。世界を見る眼は多少曇っていたほうがいい。その曇りがバラ色だったら、世界はバラ色。誰がなんと言おうと、それがあなたにとっての「現実」なのだと思うのです。

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)


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