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目の前の人たち、いつもそばにある当たり前の日常を、あたためていこう。

こんにちは、あいすかです。
11月も下旬を迎え、先週から関東も一気に寒くなってきました。
冬を感じ始めている今日この頃です。
みなさん、お変わりなくお過ごしでしょうか。

わたしの今秋といえば、子どもたちの運動会2回、お祭りが数回(学校や地域を含めて)、地域住民の方々との対話の会に参加するなど、対面でのリアルイベントが目白押しでした。
全力を尽くして頑張っている子どもたちや大人たちと共に過ごし、応援したりサポートしたり。心も身体も動きの多い季節だったなぁと、しみじみ感じています。
そんな自分をちょっと休憩させてあげながら、お手紙を書いてみたいと思います。
今回もしばし、かあちゃんの手紙にお付き合いくださいませ。


遠くを見つめなくても宝物は身近にたくさんあった

前回の記事で、フィンランド旅での出会いについて書かせていただきました。

帰国後、わたしも娘もフィンランドへ行く前と変わらず、日常を過ごしています。

旅のことを忘れてしまったわけではなく、むしろ初フィンランドで得た気づきは沢山ありました。フィンランドでの体験が帰国後の日常生活のなかにスッと同化して入り込んでいるような、この感覚は何なのだろう。わたしなりに考え続けてきました。

答えなのかどうかは分かりませんが、最初からわたしはフィンランドで何かを見つけたいと目標を定めて行ったわけではありませんでした。
これまでの経験や学びを整理し、コロナ禍での生活や環境で変化したこと、変わらないことを自分のなかで納得するためにフラットな感覚で旅をしていたんだろうな、と振り返っています。

帰国した直後も、仕事ではなく家族のことや地元である鎌倉市のイベントばかりに参加していました。
例えば伝統行事やお祭り、行政主催の市民交流の場「わたしたちの地域版フォルケホイスコーレ」への参加などです。
特に「地域版フォルケホイスコーレ」は、この地域をご縁に、10代から80代までの老若男女、職業も趣味も多種多様な方々が集う不思議で魅力的な会でした。

約2か月間、同じメンバー20人とリアルに交流しました。みんなで身体を動かして、対話して、学校のような、でも既存の学校や塾のような“クラス”とは全く別物。全行程を終了し、少し時間がたっているのに、いま思い出しても実に楽しい。
単純明快、表現力のかけらもありませんが(笑)、心を“ぷるっ”とさせられた感じ。この揺さぶられ感は、久しぶりだったのです。

誰かがなにげなくはじめた話を聞き、掘り下げていき、気づいたら全員で対話をしていたり、小学生向けの思考ゲームに参加者の大人たち全員でトライし、そこからハッとさせられるような気づきがあったり(詳しい内容については、今後受ける人たちがいるので、ここでは書けず、ごめんなさい)。

これまで、同じ町で同じ空の下で生活してきた人たち同士が、ひょんなきっかけで出会い、お互いの交流を通じて、予想外のものを発見できた感動があり、まさにセレンディピティ(思いもよらない偶然がもたらす幸運)の一言に尽きると思いました。

この体験は、未来を想う市民として、各々がそれぞれの現実や半径数メートルくらいの距離感に関心を持ち、いまの人生に重ね合わせているようでした。
わたしも、そのひとりでした。

相手のことをもっと知りたいと思う気持ち

イベント初日、自己紹介の場面でも、もうひとつ、面白い体験をしました。
初日は対話の時間だったのですが、ファシリテーターの方が2人いました。そのお2人は子ども向け教室を主催している方で、漫才のような会話をしながら、参加者ひとりひとりに丁寧に向き合い、そのひとがどういう人なのか、みんなにも伝わるように幾度も繰り返し質問をするのです。

それが、根掘り葉掘りというような嫌な感じでもなく、話している本人の心情も汲み取りつつ、話した本人の言葉はそのままに、内容については具体的な例に置き換えたり、抽象化してみたり。

全員がそれぞれの頭の中で考えたうえで、思考と想像が心地よく行き来しながら共通認識ができるような、そんな聴き方をしているのです。

大概、自己紹介で深い話などしませんし、「まず、最初の乾杯はビールで!」と同様、単なる形式的な場作りであることが多いものです。だから、自分と興味関心が異なっていたり、共通項がない人の話などは聞き流してしまうことが大半だったりします。

人に関心を持っているかどうか、その場の空気感で分かります。

正直、話があちこち飛んだりするので、ファシリテーターという感じではありませんでしたが、参加者ひとりひとりのことを深く知ることができ、はじめましての関係性のなかで、これまでにないくらいの心地よさをわたし自身も体験することができたのでした。

お2人はこれまで、子ども向けの教室でも大人向けの講座でも、ファシリテーターや司会をしているという気持ちを持ったことは一度もないそうです。
「ちゃんと場をまわそうと意識すればするほど、目の前の相手をみれなくなる。そうすると、人と人が混ざりあうことで生じる起爆的なおもしろいことが起こりにくくなるように思うんです」
そうおっしゃっていました。

その通りなのかもしれません。

自分のことをまっすぐに見てくれている人がいると分かった時、人は誰しも幸せな気持ちになるのではないでしょうか。相手のことももっと知りたいと思う。

もし、自分以外の人に興味関心が持てなくなってきたり、そんな気持ちが湧いてこなくなった時こそ、いま一度、自分自身に立ち返ってみるタイミングなのかもしれません。

地域から家族へ。代り映えのない大切な日常に

自分の住んでいる場所は何も変わっていません。だけど、想像以上に他人に関心をもっているこの地域の人たちと出会えたことによって、わたしの街をみる景色、目の前の世界は明るく広がっていきました。

住んでいる場所とは日常の生活拠点であり、とても現実的でシビアな出来事は、常に点在しています。
フィンランドを旅していた時のような、ゆったりとした時間の流れを感じることも少なくなりました。

それでも、わたしは日常生活のなかで、自分以外の人に関心を持ち続けていたいと思います。
代わり映えのしない日常だけど、一緒に暮らす家族がいる。この家族なら、飽きない人生を送れるような気がしています。

いま、とても幸せなのかもしれません。

いつも外にばかり求めて突っ走ってきたわたしですが、そろそろ人生の折り返し地点、ちょっと休憩して、後半戦に向けてパワーを蓄えておこうと思います。

Text by Äiskä あいすか(Cheer up girls★かあちゃんライター)

追伸

コロナ禍から、こうしてよむエラマで約2年間、こうしてお手紙を書かせていただきました。感謝の気持ちでいっぱいです。
また、お会いする日まで、キートス!!


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