世代を超えた循環

自分以外の人をなぜ磨いてみたいのか。
偽善かな。
エンパスで、感受性が鋭く、人の感情を自分事のように感じる傾向が強いから、同化してるのかな?
でも、違った。
人の変化の循環を起こしたいのだった。
そして世代を超えていってほしいのだった。
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海なし県に生まれ、美術進学をやめて理系へ転向し、大学で海洋学を学んでいるとき、本当は鯨類の研究をしてみたかったはずが、なぜか森へ帰着し、森と海のつながりについての研究をしてみようと思った。
循環にとても興味がわいたのだ。

繋がっているということ、影響しあっているということ、その状態が
なぜだかすごくすごく気になる。胸アツである。

そして共生というワードも気になる。

昨日はワークデーでコンサルタントの鈴木さんとワークをしていて、人生の目的をそろそろ固める段階だね、という話になり

モノづくりでは、何かを掘り出して、磨いてくっつけることに没頭していて
人は私にとって原石に見えていそうで、磨いてみたいし磨ける人になってみたいと思っていて、良いものは世代を超えて残ってほしいと思っていて、循環、影響しあっている、共に生きるというワードが気になる。

人は人でしか磨かれない。
20代の頃に知った言葉で、最近これがとても腑に落ちている。

喜びは自分から湧き出しそのままで完結、または創作のエネルギーとして羽ばたいたりするものだけど、
自分以外の人といて、ムカ!とかモヤモヤとかの感情が、湧くと
相手に向かう。
なんでそんなことを言うの。
なんでそんなことをするの。
おかしいでしょ。
と。

でも、自分以外の人は、変化しない。
変化するにはその人自身が強烈に変わりたい!!!と思って行動する結果得られるもので、
人に変化したいと思わせる人類の内の一部のプロができる技で、
自分の感情は自分が原因で発生している。
それを知って
はじめは、ぐぇええええ、とか、ぼぇええええ、とか言いながら
まだ相手のせいと思いたい!!と感じながら苦々しくでも受け入れて、
時には ハ! っとしてすんなり受け入れて
何がきっかけか問うてみて
ポロポロでてくる言葉をたどって
出来事にたどり着く。
あ、あの日あの時あの人とこういう事があったわ、と。

それをきっかけにできた思い込みが、この自分の感情という反応を作っているのか、と。

後はそれをそのまま持って生きるか、手放すか。
手放すと、相手の言動が気にならなくなるので、心がフラットになり、自身の心の変化を実感することになる。

自分の中にあるものは、人がいて、やっと在ることがわかる。

だから、ああ、人は人でしか磨かれない、だわ、と思う。

脳トレを初めて、地味にひっそりと子供に、友人に、病を抱える友人に、伝えていて、
じゃあ、それをしたいのは何でなの?と問われたとき、答えを決めてみよう、生み出してみようと言われ、
自分、修行の身ですので、やってみるわけです。

だってすごくいいじゃん!
みんなできるようになったらいいじゃん!
これを知ってたら30数年の苦しみなかったじゃん!

(うーmm、しっくり来んな。)

うち、エンパスなので、苦しんでる人がそばにいると、苦しくなっちゃうし!
(うーん。利己的か!)

ううううーーーーん、

循環が気になる、良いものは良い、残ってほしい、世代を超えてほしい。
こんなクソみたいな苦しみを孫とかの世代が繰り返すとか耐え難い。

人は原石に見えている、磨く方法があるなら、磨けば良いと思っている。
磨かれた人が世代を超えてほしい。
踏みにじられても、自分の価値に気が付いてほしい。

人の変化の波が時代を超えてほしいからだな。
目の前の人を見てるけど、その人の子どもの世代、孫の世代を見てるから
人を磨いてみたいんだな。
古い時代から残ってるボタンが好きな私らしい理由。
良いものは時を超えろ!と思っているんでしょう。笑


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