親の失敗は何のためにあるのか

親の失敗は、子供に育ててもらってる証拠だった

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なぜ親になったのか

子供の頃の話に書いたように、
自己肯定感を長野の大自然の中なのか
道の両脇にある用水路あたりに落っことしてきたので、
親になることはきっとないのでは、
と思いながら生きてきた。


こんな欠陥人間に、人類を産み育てるなんて、とても出来ないだろう、と。

でも、今二児の母をしている。
この事に最も仰天しているのは私だ。笑

我が家に友人を呼んでご飯を食べるというのをコロナ前はよくやっていて、
料理出しながら、ふと、
そうか!うち結婚してるのか!と発言して
何を阿呆な事を言っているんだろうね、君は
と友人やら夫に言われたことがあるんだけれど
それはこれが起因しているよ。笑


子供は親を選べない、というフレーズ。

親への恨み節?かの様なフレーズがあるけれど、
私は逆で、
子供は親を選んで生まれてくる、
と思ったから親になった。

これは、何か自分には見えてないものを見ている人や
生まれる前の記憶がある子と会って話を聞いたりした事があって、
自分自身ではまったく実証も検証もしたわけではないけれど、

何というかーーー

すごく、
しっくりと腹に落ちたから、
私はそう思っている。

死んだあと、それが本当か確認するのをとても楽しみにしてもいる。

死んだら、神が存在するのかどうかを
なとかして現世にメッセージを送るからね、
先に死んだ方が何とかしてメッセージを送ろう!
と母と話したこともあるな。笑

死んだ時にやりたい事、楽しみが、私にはあって、
そのひとつだ。

できるのかはもちろん不明だけれども。笑

子供が親を選ぶという事は、
もし私に子が出来た時、選ばれていて何かしら目的みたいなものもあったりするのだろうか?
と疑問が生まれた。

だって、私の実家は私にとって、ハードモードというか、修行の場だったから。

もちろんこれはものすごく個人的な考えで、
生まれた家が複雑怪奇で、子供を持たない選択をしている人も何人も出会っている。

そして、病気や、身体の事が理由で持てなかった人にとってはとてもセンシティブな話だとも思っている。

私はどちらかというと自分の意思で持たないだろうと思っていたけれど、
私が選ぶことではないなら子供にお任せしよう、と
とても気持ちが楽になった。

取り敢えず
自己評価が欠陥人間なのだけれど?
えーんやな?
そこに来たくて来るんやな?と。笑

だから、結婚している。

私にとっては、結婚とは、子供の意思に任せて生まれてくるなら受け入れます、という宣言だった。

昭和生まれなので、私の結婚観も
昭和の空気を帯びているなぁ、とは分かっているけど、私にとってはそうだったという話だ。

パートナーと一緒に過ごすだけなら、結婚制度を利用せずともいれば良い、と思っていた。

私がどんな親になったとしても子供に得られるものがあるから、私の元に来たんだろうから。

では持てなかった人は選ばれないという事なのか、という事が言えてしまうよね。
ひどいじゃないか!と。

出来ない事が山の如しだった私からすると
多くの人が当たり前に持っているものを持たないということに、とんでもない意味や価値があると思ってる。

私が、子供の頃
これ、ほとんどの子供は通らなくても良いのでは?トホホ、と生きてきた道に
価値があったんだ、と肯定したように
価値があるという確信がなぜだか勝手にある。

価値を決めて良いと思う。
自分で。
誰に何を言われても。

子供は親の鏡

子供は可能性だらけだ、と言われているけれど、
実はそれが、本当にそうだなぁって、分かってきたのは最近かもしれない。


何となく言葉尻わかった気になっていた時
いろんな事が出来るようになる可能性がある、
だって今0だから。
ここから成長しかないではないか、と思っていた。
子供は0の状態だと。

でも、

子供は自分を信じてるし
自分のことが大好きで
相手を無償の愛を持って愛することもできる




全部大人ができてないことじゃん!!!!

大人が出来なくなってる、とても大切なこと、取りこぼさずみんな出来る。

子供が可能性だらけなのは、
自分を信じているし
自分のことが大好きで
人への愛も恐れず表現できる、
という土台があって

そして、
そこに加えて

知識
能力
ノウハウ
価値観
信念

がプラスされるから無限大なのだ。
何でも可能なのだ。
チャレンジできる。

失敗もチャレンジしたから得られる物事のステータスで、
ただの一時的な状況の事で、
そこから学べば良いんだよ、
という価値観や信念が得られていれば
人は学んでいける。
折れない。力強い。

だから可能性だらけなんだ。

でも、私は、それを分かっていなかった。
言葉にするほど、子供が生まれ持ってる
価値をちゃんと認識してなかったと思う。

子供は0だ。
何でも吸収可能だ。
なので、知識、ノウハウ、価値観を与えてゆく。

それを得た方が良いはずと思って。
良かれと思って。
それを得ないと、こういう危険な状況になるよ、と言う。

人から信頼されないかもしれない
お友達とトラブルになるかもしれない
なりたいものになれないかもしれない

その危機回避をするために、これをやろうね。

でも、危機回避のために
人って動かないんだよね。笑

動きは若干しても、やる気が伴なわない。

子供も馬鹿ではないから、やりたい事を優先でやる。
親から与えられる事を、
子供自身が
それは本当に価値があるね!って思わないと
ワクワクしないと
本当にやりたいんだってならないんだよね。

半ば強制されてやる事に、
やる気が伴うことはなく
やる気半分でやることの結果が良いわけはなく
親のイライラが止まらない。

それが2022年の春だった。

子供の宿題を見守る事に1ヶ月で限界を感じた。笑

イライラして気が狂いそうになっていた。
平仮名ドリル1ページに3時間。

そこから自分のイライラが異常に感じて
学び始めた。

自分の、子どもはこれをやった方が良いと思う事の理由が、
どこからくるものなのか
半年くらいかけて直視して文字にできる状態にした、
またはしている。

子供にイライラモヤモヤするお母さんやお父さん、
イライラする側に、あります。何かが。

子どもは親を映してくれます。
親に何が必要か。

イライラしたら、
それは成長の可能性が、親に、あるという事だと思う。

失敗や、バツは可能性

幼児教育の人のライブを最近見ている。

“テストのバッテンはね!
可能性なんだよおおおお!!“
と。

“赤のバツが嫌なら、好きな色のマークを書き加えて良いんだよ。

今日も可能性があった!
イェーイ!!って
親子でやるんだよ!!!!“

なんたる、エネルギーー、
そして、素晴らしい価値観。

本当だね。と思う。
可能性しかないね。と。

形だけの
知識を脅しつつ半ば強制に入れていく事で
損なわれる
自分を好きだと思う気持ち、
何かを出来ないと愛されない、または評価されないんだ、という事を
暗に刷り込んでいっている事、
ちゃんとハッキリとした自覚足りなかったーーーーー!!!

“親が、この知識やノウハウを学ぶ事の価値を
子供に伝わるように表現できてないんだよー??

人によって、いつそれにハッと気がつくかなんて分からない
手を変え、品を変え、表現を変えて
それを得る価値を子に伝えるんだよおおおお!“

そうか、親の方の問題だったー!!!

“伝えたあと、子供に聞くんだよ。
やるかやらないか、自由に選択させるんだよ、
やる場合は、じゃあ、わかった!
●●がやると言うならお母さん協力する!
一緒にやってこう!
って同じ方向向くんだよ。
方向が同じになってないから、
うまくいかないんだよぉ。“

私→
「YES!!サーイェッサー!!」

それを朝イチ見つつ、業務の準備をする。

子供の宿題にイライラして気が狂いそうだった時
自分で、試行錯誤して伝えた何で勉強が存在するのか、という会話は
あってたんだなぁ、と言う答え合わせをしている。

そして、子供のやりたいかどうか、
その選択を待ってから、で良いのだ、と
その価値観の再確認、リマインドになっている。

“親なんてね、子供が出来てから親になるわけだから
失敗だらけよおおおお

失敗はする。
したら、あとで巻き返せば良いんだよお“

本当にそうだね、いしいおうこ先生様
巻き返すよ。これからも。

親の失敗も、もれなく可能性なのだから。

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