小豆島旅行記 〜自由律俳句とともに〜
2024年2月20日〜2月23日、私は「劇団ゆうじゅうふだん」団員と共に小豆島へ出かけた。
目的は、我々が2年前に行った公演『咳をしても一人、くしゃみして二人』で舞台となった地に、いわば聖地巡礼を行うためだった。
団員は皆視点が独特で、ただ話しているだけで一向に飽きないのが面白い。彼らと一緒にいると私の中で蓋がされかけていた創作への意欲が再び胸の奥底から湧き上がってくるのを感じる。
なぜだろう、私がこれまで仲良くしてきたどの集団とも異なり、彼らと一緒にいると気味の悪い連帯感が身を纏い、普段の自分が押し流され、私ではなく「劇団の一員」という抽象的な要素になったような気がする。
天候には恵まれなかったが、とにかく素晴らしい旅だった。小豆島という閉鎖的で独特の環境は、浮世離れした我々の滞在場所に全くふさわしい場所だったと思う。気がつくと私は、自分の経験を、眼前に広がる美しい景色を、ハプニングを愛おしむ感情を言葉にする術を探っていた。
小豆島で創作をするとなれば、ふさわしい表現方法は明確だった。
それは自由律俳句である。
我々の訪ねた小豆島は、公演名の由来ともなっている「咳をしても一人」で有名な、尾崎放哉が晩年を過ごしたことでも知られている。悠々自適で自堕落な彼が多くの傑作を生み出したこの地で、自分もどんなことを表現できるのかを知りたかったからだ。
最初は右も左も分からないところから見様見真似であったが、尾崎放哉の足跡を辿るにつれ、ほんのわずかではあるが自由律俳句のエッセンスを見出したように思う。人生で初めての挑戦である拙作を旅の思い出として明文化して残しておけば、きっと後から振り返った時に他からは得難い快感があるのではないかと思う。
というわけで、この記事では、小豆島にゆかりのある自由律俳句の大家・尾崎放哉に倣い、旅の思い出を自由律俳句とともに振り返ろうと思う。特に印象的だったもの・気に入ったものについては写真や解説をつけて、それ以外を含めた全てを記事の最後に書いている。
多くの風情も笑止も共にした、五人の友人たちに感謝を込めて。
<1日目>
ぬかるんだ道で垂直な竹が待っている
旅の最初に、おそらく観光地としては誰も来ないであろう廃墟に来てしまった。そこにたどり着くまでの道も荒れており、竹や雑草はあちこちに伸び放題である。明らかに何かがおかしい周囲の景色に不安になる我々を待ち受けていたのは、雨上がりで足元もぬかるむ中一本だけ直立する竹だった。
古看板を絡めとって落ち葉になる
訪れた廃墟は「滝宮ベース」という名前で、2年前まではアスレチック施設として稼働していたらしい。その時の面影があちこちに散乱している中、看板が不格好に地面に落ちて上に落ち葉が乗っているのを見つける。それはまるで、看板が役目を終えた者として「落ち葉」となり、周囲が仲間として地面に引きずり込まれているだった。
透明な子供が足を踏み外している
滝宮ベースには、かつて子供たちが遊んでいたであろう遊具が残されていた。草木は伸びきっているが、遊具の傷からは当時の面影が克明と読み取れ、目の前で子供が足を踏み外して泣いている様子が見えるかのようだった。
観音様もエゴサーチをしている
次に向かったのは小豆島大観音。観光客を呼ぶ戦略としてSNSで拡散させたいらしく、どうやら『SNSに載せると』ご利益があるらしい。ということは、観音様は定期的にエゴサーチをして、誰が載せているのかを把握しているのか、と気がつき、思わず笑いがこぼれた。
神の威光よりも監視カメラ
大観音の内部では、観音様の小さい像がいくつも並べられていて壮観である。しかし、盗難防止のために観音様の画像と共に「防犯カメラ作動中」の看板が。やはりこれだけ神様の目があろうとも、防犯の観点では監視カメラには勝てないのか。
生乾きの道路でおせっかいを焼く
移動中、道が分からなくなってしまった私たちに対して、地元の方が「おせっかいだけど~」と親切に案内をしてくれた。それにしても、おせっかいを「焼く」とは面白い言葉だ。その方が焼いたおせっかいは、どんよりとした生乾きの道路をカラッとさせてくれているように感じた。
どこかに胡麻の足跡が隠れている
小豆島ではあちこちで胡麻を栽培しているのだろうか、歩いていると道脇の草からごま油の香ばしい匂いがフッとしてくることがある。だがどの植物が胡麻なのかは誰も分からない。香る度にその出処を探す私たちは、何か珍しい動物の足跡を探しているようだった。
海岸に別れ際の挨拶が空耳する
宿に着くと、眼前には広大な海が広がっている。島の外という異世界と繋がっているこの海では、これまで多くの人が別れの挨拶を交わしたに違いない。
腹六分の幸福を語る宵の口
夕食に訪れたイタリアンレストラン『Buon Compagno』の料理は抜群に美味しかった。ここまで全員が一致して「これまで食べたイタリアンでダントツで美味しい」と言うことはなかなか無いだろう。そのあまり、最初に注文した料理を食べ終わったあと「もっと食べよう」「いや、もっと欲しい状態でやめとくくらいが一番いい」としばらく議論になった。腹六分の葛藤こそが至福のひと時である。
<2日目>
まだ見ぬギリシアの郷愁に浸る
オリーブ公園には、ギリシアの趣の残る風景がある。景色を見て、私たちは現地に行ったことがないのに、なぜか懐かしく感じるのは一体何故だろうか。
可憐な清掃員の撮影会
オリーブ公園は、魔女の宅急便の世界観があるとして有名なようで、箒を持って風車の前で写真撮影をする人が多くいた。本来掃除するための道具が、フィクションによって可憐なアイコンに様変わりするとは面白い。
醤油倉から実家の匂いがする
醤油の製造を見学させてもらった時、倉から祖父の家と同じ匂いがすることに気がついた。建物の古さ故か、あるいは醤油そのものが我々日本人のDNAと強く結びついて懐かしく思わせるのか。
空から絞り出して雨粒
一日中雨が降り続いている。醤油は発酵させたものを、70トンもの重石を乗せ長い時間をかけて絞るそうだ。ポタポタと醤油が絞られていく様は、少しずつ降りしきるこの霧雨に似ていた。
駆け抜けても島の中
島の中をドライブしていると、なぜだか閉塞感を感じる。カーブが多いからだろうか、スピードを出していてもここは孤島なのだということが感じられる。この島に住む人たちは、ずっとこの感覚を抱きながら生活をしているのだろうか。
<3日目>
だんだん海と馴染んでいく山際
宿の目の前の海岸。今日は見通しが良く遠くの山々も視認ができる。離れれば離れるほど青く見えるので、徐々に海と同化していき、どこが境界線か分からなくなる不思議な感覚を覚える。
あてもなく歩いてどこも終点
「迷路の街」と呼ばれる場所。確かに入り組んでいて、目的地を決めずに歩いていると迷い込んで閉じ込められてしまいそうである。だがそのようにしてたどり着いた場所はどこも風情があり、そこを終着点として必然的にたどり着いたようにも思える。
放哉に見栄っ張りを叱られている
自由律俳句を旅の中で作っていたが、どうも私は無駄に言葉を飾ってしまう節があるらしい。ここまでお読みの皆さんも薄々気がついているかもしれない。資料館の展示で、簡素だが味わい深い放哉の作品の数々を見て、ああ、自分は無駄に見栄を張って言葉を綺麗に見せようとしていたのだな、と気がつかされた。非常に決まりが悪く、なんだか叱られているようにも感じる。
人の味わいだよな生きるには
尾崎放哉は自由奔放かつ自堕落な人間である。「どうも風がいけません」としきりに知り合いに無心する様子は見るに堪えないが、その情けなさこそが放哉の味であり、人に好かれる所以なのである。人にどう評価されるかばかり考えていた自分よ、体裁を保つことに躍起になっていた自分よ、結局大事なのは人間味なのだ。
棘をしまいつまらなくなってしまった
放哉のように尖った人生を送る方が、人に好かれるかは置いておいても面白い。完璧な人間など存在しようものならそれはAIに取って代わられるに違いなく、その棘こそが人間の証なのだ。さて自分よ、お前は果たして中高の時のような痛ましい自分を残しているか。丸くなったと言い訳して自分自身の内なる怪物から逃げ回っているのではないか。
ため池がにごり缶コーヒーが浮いている
道端のため池が藻で濁り真緑だ。その中で一際目立つのが無造作に捨てられたコーヒーの缶。ため池は本来人工的なものなのに、濁った藻のせいで時間の経過による自然との繋がりを見いだすが、その糸を切るように不自然を演出する缶コーヒーが、なぜだか非常に興味深かった。
海が穏やかだ反対側に人混み
小豆島の観光名所のひとつであるエンジェルロードは、閑散としている他所と異なり観光客で溢れている。波がなく穏やかな小豆島の海景色に見とれていると、そのすぐ側で大勢がまとまっている人混みが一際目立つものだ。普段は人混みの中で生活しているのに。
知らぬ人の絵馬を見て目をそらす
エンジェルロードは恋人の聖地と言われているようで、ハート型の絵馬に知らない人が誓った永遠の愛を覗き見ることが出来る。「○○のことがずっと大好きです!」空虚に放たれた内輪の告白を見て、道端でキスしているカップルを見た気持ちになり、思わず目を背ける。
先陣を切った独りでさびしい
まだ完全には繋がりきっていないエンジェルロード。皆が躊躇する中で、1人の長靴を履いた勇者が水しぶきを散らせながら道を切り拓く。渡りきった彼女に皆拍手喝采であったが、その後しばらく誰も渡らず、彼女は手持ち無沙汰に対岸で皆を待ちくたびれていた。先陣を切る物はみな孤独なのだ。
<4日目>
あと少しだ爆発の前の濁り汗
この旅行を通じて、団員と「こねこばくはつ」というカードゲームをリーグ戦で18試合行った。あと少しで勝負が決まる。カードを引く時に気がつくと手が汗で湿っていることに気がつく。スポーツ以外でこの切迫感を味わうのはいつ以来だろうか。
そこに城がないマンションで埋める
高松城を訪れると、そこには石垣だけか残されており天守閣が存在していない。見慣れた物の土台だけがあるとは大変不気味なものだ。何かを載せなければと辺りを探し回ると、遠くでマンションが遠慮がちに顔を出しているのが見えた。
傘小さくて持っている肩がずぶ濡れ
旅中で買った傘は直径が50cmしかなく、肩が収まりきらない。次第に湿って色が濃くなる右肩を見て、傘を頑張って持っているのに肝心なその肩は保護から漏れているのだな、と皮肉を感じた。
ここまで読んでくださりありがとうございました。最後に、この度で詠んだ自由律俳句を載せておくので、もし何か気になったものがあれば是非教えて下さると非常に嬉しいです。
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