世界が繋がった結果、みんな家にいる
先日、目にした美術批評家 椹木野衣さんのコメントが秀逸だった。
グローバリズムを推し進めた果てにあったのが、どこまでも拡張する自由な地球=世界ではなく、目の前の小さな在宅(オタク)であったとは。
(ちなみにこのシリーズでは、退職によって50日間の夏休みを手にした30歳元動画IT系OLの私が、コロナで自粛の今だけどやりたいことをやる!その中での気づきや行動を記録していきます)
確かに、今までGoogleとWikipediaで世界中の事件や地図を調べられて、友達のどこいったよ〜などの報告や思い出もInstagramで知ることができて、知らない人ともTwitterなどSNSブランディングを作り込むことで人脈やチャンスができるようになった。
そして今も、私たちは満員電車に乗らず上司の監視の嫌疑の目から解放されるリモートワーク生活を「はよはよ!」と熱望していたし、有名人は個人で発信していくために個人SNSをバンバン始めるし、大半のサービスはオンラインで買えるように推し進められてきた。
だから、コロナがなかったとしても遅かれ少なかれ「みんな家にいる状態」は訪れていたかもしれない。
そしてコロナ以前に外出ができてた頃もさ、人からの紹介だったり現場を見にいく物理的でプライベートな行動って、どこか「アナログ」レッテルが無言で貼られてて、それよりかは広いインターネットでフラットに繋がることがイケてるっぽく醸成された感じあったよね。
(ただのマーケティングの一つなんだと思うけど)
そんなこともあり、誰とでもフラットにコミュ二ケーションが取れるようになって、匿名だろうが実名だろうが平等にインターネットで発言できるパワーを得られた。
ただ、いくらインターネットで世界中通信は繋がって、平等に発信権を持てるようになっても、実態は「全員家にいる」のだ。
…なんだかシュールだ。
富める人もそうでない人も、全員外出できない不自由があって、
国内の人も国外の人も、同じ問題に向き合って励ましあって、
有名人も一般人も、同じ土俵のインターネットで発信しあえて…
家にみんなが押し込まれることで、だいたい全員が同じ不自由と権利を得る状況になった。
世界が繋がったことで「超フラットでチャンスも平等な世界」になった気がするけど………私たちってこうなりたかったんだっけ?
少しの励ましが大きな活力になる燃費良い人間です!