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最近の学び~創作姿勢と自己肯定~

私はかなり、いやものすごく自己肯定感が低い。
友だちも「うち結構自己肯定感低いんよねぇ~」と言うが、そんな甘っちょろいもんじゃないぜと張り合ってしまうくらい、自己肯定感が低い。いっそ無い。

幼少期より周りに言われてきた言葉、母に言われた言葉、教師に言われた言葉。「自己肯定感」という言葉を知ってから色々な本で調べた結果、それらが幼心に薄っすらあった自己肯定感を殲滅したのだと思う。代わりに、自己否定感はものすごく強い。ネガティヴ選手権があったら優勝圏内に入れるだろう。自己否定の英才教育を受けて来た自負はある。

「そこは肯定するんかいっ」とよく友だちにつっこまれる。

だってしょうがないじゃん。「消えろ」「目障り」「お前がいるから」「お前のせいだ」「黙ってればまだマシ」「こねぇな奴がおって恥ずかしい」「イライラする」「気持ち悪い」「産まんにゃ良かった」「あんたがおらんかったらもっと自由に仕事もできたし楽しかったやろうなー」その他割愛。物心ついた頃から耳馴染みのある、私への評価ワード。その評価が正しくて、そう言われることが当たり前。自分で自分を肯定したことなんか一度もない。

「自分を愛せない人は、他人を愛せない」らしい。だから私はたぶん一生、誰も愛せない。自分の愛し方なんて知らないし、自分に愛せるところなんて欠片もないし、誰かに愛されたとしたら不気味で恐怖心しか感じないだろう。
誰かと仲良くなっても、仲良くなりかけたときは必ず裏を探す。私と仲良くしてこの人に何のメリットがあるんだ?引き立て役か?自分より下にいる者を定期的に嘲ることで優越感を得たいためか?どういうサンドバッグであることを私に望んでいるんだ?などなど。

今現在、胸を張って『友だち』と言える人たちは、どんなに探しても裏がなく、直接聞いても「あやのちゃんとおると楽しいけ、だけやけど?」とよくわからない答えしか出て来ない人たちだ。一緒にいて、否定されず(陰ではされているかも知れない)あからさまな肯定もなく、ただ私を”受け入れてくれる”人たちだ。どんな毒を吐いても、どんなネガティヴパワー撒き散らしても、笑ってその空間を明るく心を軽くしてくれる。その心地良さが、自己肯定感なのかも知れない。
だからこそ、仕事で否定感の泥沼に浸かり家で否定感の雨を浴び続け否定感フル充電になったとき、思い浮かぶのは友だちの顔と声なのだ。

自己肯定感が低いと「どうせ自分は何やってもダメだ」が真理だったりする。
どうせダメだから、どうせ私が書いたものなんて誰も読まないから、どうせ良い評価なんてされるわけないから、当たり前じゃん。

その真理が創作に反映される。「どうせ誰も読まない」と思うから、読み手を意識した文章にならない。誰かに届いてほしい、誰かを笑顔にしたい、なんて言っていても「誰か」に伝わる内容や思いがないとただの文字列でしかない。そのことに最近、気がついた。

自己肯定感なんてこの歳になると、最早自分の芯のようなもので、性格以上に変えにくい。だけど、このままじゃダメだ。

自分に自信を持って、自分で肯定して、「”私”が書いたのよ!読んで!」くらいの勢いで歌詞もエッセイも短編も漫才やコントも創作していきたい。
・・・と言いつつ、それはさすがにハードルが高すぎるので、とりあえずはnoteに投稿する歌詞とエッセイに毎回スキをつけてもらえるような創作を心がけます(^^;) (コメントももらえたら嬉しいけどそれを望むのはもっと先...)

#最近の学び

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