自然体な個人と最高の組織。これを一緒につくるのが私の使命。
こんにちは&はじめまして。森奈々絵と申します。
都内某所、うん十年前の梅雨晴れの6月。私の父は毎週火曜のルーティンの草野球に来ていました。母が病院で陣痛で一人頑張っていた頃、父は晴天のグラウンドでセンター前ヒットを打ったらしく。私はその時に生まれたんだといわれています。嘘か本当かはわかりません。
私の原点。父と母。
私の価値観を語るうえで家族のこと、とくに父と母のことは私の原点であり、切っても切り離せないのでそんなところからお話したいと思います。
父は商店街にある小さな古本屋の店主。
お店の上に住んでいたので出勤しているという感じもせず、仕事をしながらも常にそこにいてくれる存在。お店でお絵かきしたり、ボール遊びしたり、字の練習を見てくれたり、お昼寝したりと、自営業の我が家は4歳まで保育園に入れず、幼少期のお店は今思えば保育園のようで、父は元祖イクメンでした。
決して裕福な暮らしではありませんでしたが、目の前で両親が仕事をする姿を見るのが当たり前だった私にとって、息をするように自然で、仕事と生活の場が溶け合っている状態、「生きる」と書いて「はたらく」と読む、私の理想の働き方がそこにあります。だからこそ、私の子供たちにも働く姿を見せながら子供たちの成長を見守りたいという思いもあり、2社目の会社でそれを実現させるのですがその話は後ほど。
母は私が物心つく頃には専業主婦でした。すでに母は他界していますが、母の親友から聞かされるいくつもの逸話は私のあこがれでもあり、私もそうなりたいと思う姿です。だから、ロールモデルが誰かと問われれば間違いなくそれは「母」と答えます。
私が生まれた当初はまだ働いていた母ですが、高校卒業後に就職し、とても仕事のできる人だったそうです。会社の同僚の方からは「両手で受話器をもって、両耳で別々の話を聞きながら、ほかの人にメモで指示だししていた」との話を聞いたことがあります。とてもパワフルでした。
私が他人から聞いた大好きな母のエピソードはこれ。社内のいざこざに巻き込まれて、2つの課の課長に挟まれ「おまえはどっちの味方だ!?」と言われたときに、すかさず母はこう答えたそう。
『私は誰の味方でもありません。私は正義の味方です!!』
高卒で仕事をはじめたのですから、おそらくこの発言をしたのは20代前半くらいなのを考えると、ここまではっきり言い切れるって、すごい!の一言です。これは今では私の座右の銘のようになっています。こんないくつもの逸話からもわかる通り、とにかく自分にも他人にも厳しい人だったのが母であり、私の原点そのものです。
父からは「生き方(=働き方)」を、母からは「人としての在り方」を教えてもらったんだと思っています。形は違えど、私のいまの家族への接し方やコミュニケーションにもきちんと伝承されているのではないかなと思います。
私の原点。コンダクター。
もうひとつ、私の原点を語るうえで避けて通れないのは高校の部活動。ブラスバンド部での青春時代です。
私が通っていた都立高校はとても歴史と伝統のある学校で、部活動も行事も基本的に自主自律の精神を大事に、すべて生徒が運営していました。
先生はあくまで顧問。年間の行事の企画運営はすべて生徒に委ねられています。我が部も同様で、中でも珍しいのが指揮者も学生がしているところ。通常は音楽の先生が指揮台に立つわけですが、先生は奏者として参加していてあくまで指揮は学生が担当し、選曲から何の舞台に立つのか、合宿などに至るまですべて生徒が歴代の先輩方の指導を受けながら役割分担し運営していくのです。
これが想像以上に会社のような組織になっていて、部長・副部長・会計・広報といった部の組織運営チームとコンダクター(指揮者)・コンサートマスターといった演奏チームで成り立っており、私はコンダクターで演奏チームのリード役でした。
同じリード役でもその役割もキャラクターも違いますし、ぐいぐい引っ張るタイプの部長と全体の調和を図るタイプの私:コンダクター。今思えば、リーダーシップとマネジメントの違いに大いに悩まされたのが高校時代でした。伝統ある部活だったこともあり、OBOGの声も大きかったですし、やりたいと思う今のやり方を否定されることもしばしば。
10名弱の同期メンバーとは朝昼晩、苦楽を共にし、放課後は近くのシャノワールで“シャノ会”と称して、部活の方針や後輩にどう向き合うかやお互いへのフィードバックなどすべてをさらけ出して涙しながら乗り越えたあの時間は私のビジネスパーソンとしての原点だなと思います。
働くって何だろう?
あまりに楽しすぎた高校時代を超えてしまって、やや抜け殻になっていたのが大学時代。
奨学金で大学に通っていたので、サークルにも入らずアルバイトをはじめました。家庭教師で、中学3年の受験生ばかりを担当し、毎日いろいろなお宅に伺っていました。ここで、人の成長にかかわること、教育ということに関心を持つようになりました。
そして大学三年でいざ就職活動。正直、自営業の父母をみてきたこともあり、会社に勤めるということそのものがピンとこず。業界業種などたくさん見ても決められそうにないと思っていた私は、小さな手掛かりとしてやりがいを感じられた人と教育の業界にしぼって就職活動をしはじめました。
就職氷河期最後のほうで、大量採用をはじめた大手企業にどんどん決まっていく同期を横目で見て焦りながら、50社くらい選考を受けました。ようやく内定をいただけた1社、“人の成長を支援できる会社”ということに魅力を感じて・・・というかそれくらいしかわからないで、人材育成・組織開発コンサルのベンチャー企業へと入社を決めました。
徹底的にプロ扱いされる「新卒」
入社したのは、簡単に言うと、『大手企業の人事部様を窓口として、複数外部ネットワークしているコンサルタントを、研修講師として研修コンテンツとともに売る』というビジネスをしている会社。
クライアントは自分の一回りも二回りも年上の方。コンサルタントは百戦錬磨の戦略系コンサル出身の尖った方々。新卒の小娘がどうこうするなど恐れ多い方々ばかり。これはとんでもないところに飛び込んでしまったぞ・・・と入社して早々後悔からのスタートでした。
いい意味でも悪い意味でも子ども扱いされない会社で、いきなり研修現場に連れていかれて、一人取り残されるなんてこともしばしば。受け身全開だった新人だったため、現場に一人残されても何をしていいかわからずに、クライアントである人事の方に「講師からこういわれたのですがどうしたらいいですか?」と聞いて、「何しに来たんだ!!」と別室に呼び出されてめちゃくちゃ怒られたり、研修講師に「事務局からこういわれたのですがどうしましょう?」と聞いて、「おまえは伝書鳩か!?」と受講生の前で怒られたりと本当に散々な日々でした。当時はとにかくやることなすこと裏目に出て指導されていたので、できるだけ目立たないように、私は脇役でいいし黒子でいいと思っていました。
そんな話をあるお客様との飲みの席で話をしたところ、こんなことを言われたのです。
「自分の人生においては誰しも主役。
脇役をやっている役者も脇役という主役を人生において演じている。
おまえはこのまま自分の人生まで脇役のままでいいのか?」
愛あるフィードバックにその時は素直に受け止められなかった記憶がありますが、この時のこの言葉がその後ボディーブローのように効いて、もっと自分らしくできることはないか、もっと成長してこの人・組織に貢献していきたい、恩返しをしたいと思うようになりました。そこから色々なことが好転していったように思います。
亀の歩みだったこともあって同期の中では一番最後でしたが入社5年目にマネジャーになり、メンバー育成、チームマネジメントも経験でき、より一層楽しい時期が続きました。
結婚・出産・育児。
同じくしてプライベートでは結婚、第一子・第二子と出産。産・育休を経てワーキングマザーとして、夫が単身赴任だったこともあり、ワンオペの中でなんとか毎日を切り盛りする日々。
最初は充実感を感じられましたが、それも仕事復帰後の最初の1か月くらいでした。通勤時間の関係からフルタイムで働けず時短勤務。マネージャーをしながらの子育ては想像以上に制約の連続で、先輩ママからは「子供が小さい時期は仕方ないと思いなさい」と言われたけど、内心“なぜ仕方ないと思わないといけないのか・・・”と思いながら毎日悶々としていました。
子供が熱を出しては呼び出され早退し、PCを持ち帰ってサービス残業ばかり。時短だからお給料は天引き。延長保育すればその分保育料がかかる。何のために働いているんだっけ??と思うことばかりでした。
そんな中でも、私は“働く”も“子育て”も120%くらい充実させたいと思っていました。
「働きたいと本人が言っているのに思うように働けない。子育てだって妥協したくない。そう思うことの何が悪い!!」
と考えていたそんな時に、出会ったのが2社目の女性のためのフリーランスエージェントの会社でした。
柔軟な働き方で時間と場所の制約を超えて、イキイキと働ける。そんな働き方を自ら実践し、そんな働き方を提案できたらどんなに楽しいだろう。
そう思って12年お世話になった会社を転職します。
女性活躍支援。葛藤も。
次の5年は自分の課題意識のもと境遇の似た女性たちを支援できることに、今までにないやりがいを感じていました。そんな中起きたのがコロナ大流行。
もともと最先端の新しい働き方を取り入れてリモート経営をしていた前職は在宅ワークも当たり前の生活をしていて、ビジネス環境は大きく変わる中でも働き方のベースは変わることもなかったため、おかげさまで大きな変化を感じることなく業務遂行できていました。
図らずも、コロナのおかげで、休校休園中の子供たちにも働く姿を見せながら子供たちの成長を見守る働き方も実現できました。
コロナによって、世の中の働き方の柔軟性は一気に増し、それ自体が当たり前化してくる中で、組織に属するということの意味を世の中全体が考え始めるきっかけにもなっていった時期。御多分に漏れず、私もそれを感じるようになっていきました。
目指すビジョンと私の「働き方の自由度をもって思いっきり働きたい」という方向性は重なっていたものの、これまではそういう働き方が可能な組織がほかにはなかったわけですが、ほかでも実現可能な世の中になったことで、改めて私のやりたいことってなんだっけ?と急にわからなくなったのです。その時におぼろげに浮かんだのは人材開発に関わっていた頃のこと。個人との対話を大事に、個人がイキイキと働ける組織作りがやっぱりしたいなと思い始めたのです。
なぜそのように思ったのか?それは実際に目の前の所属している組織で、会話はできても対話にならない状態を体感していたからです。
もともとリモートだからこそコミュニケーションは意識していましたが、雑談の時間など意図的に設けても当たり障りない話どまり。そこから突っ込んだ話までできないもどかしさ。でも、仕事はオンラインになったことで隙間なく業務が入り込み、重要だけど緊急度の高くない話は後回しに。気づくと変に周囲を気遣いすぎて言うことも言えない。憶測でものをいう/いわれる場面がでてきてました。フラット型組織を志向していた会社で階層もさほどなく、40名前後の所帯。こんなに小さな組織でも誰かの指示を誰かが待つような状況。結局はヒエラルキー組織のような軍隊組織のほうがよっぽどマネジメントが楽なんじゃないかと思った時期もありました。
最終的にはそこに戻っていくしかないのかな・・・あきらめるしかないのかな・・・そんな思いを抱えながら過ごしていた時に出会ったのがエイトシークエンスでした。
エイトシークエンスから社会へ。
エイトシークエンスのミッションや存在目的、事業としてやっていこうとしている世界観、「らしさ、さがす/つなぐ/いかす」のコンセプト。
私が長年葛藤やもやもやしてきたことをまるで私のために言語化してくれたの!?と思うほどに、そこまでにたどり着いたエイトシークエンスの葛藤とプロセスはずっと言語化ができていないことをクリアにしてくれたような感じがしました。
ティール組織、ホラクラシー組織やフラット型組織などいろいろな言われ方をされ、そこに共感を持った経営者の方がそれらの要素を取り入れています。でも、なかなかうまくいかない。
私も前職でチームを持ちながらどうしたら本当の意味での心理的安全性が築けるのか?主体性をもってプロジェクトが進行できるのか?指示しちゃったほうが早いんじゃないか?等々。。あっちいったりこっちいったり悩んできました。唯、皆が幸せに自然体でそこにいたいだけなのに…どうしてそうできないのだろうか??と。
高校時代の部活であったような、目指したいゴール・目的があって、だからこそ厳しいことも互いに腹を割ってとことん対話でき、そんな仲間とど素人でもできた感動の最終発表会のあの高揚感をビジネスの場でも作れないのかな??、、、と。
息をするように当たり前にそこにある働く、自然に心穏やかに、安心してひとりひとりが最大限のパフォーマンスを上げられる組織。
その組織らしいチーム作りとそこで輝く人を応援をしていきたいなと私は心から願っています。
そして、私もその当事者として一緒に伴走していけたらと思います。
森 奈々絵(もり ななえ)
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