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アフガニスタンの難民家族が自ら撮影した作品など 【次に観るなら、この映画】9月11日編

 毎週土曜日にオススメ映画3本をレビュー。

①アフガニスタンの難民家族が、安住の地を求めて旅する様子を“自らスマートフォンで撮影した”ドキュメンタリー映画「ミッドナイト・トラベラー」(9月11日から映画館で公開)

②「火口のふたり」の瀧内公美が主演を務め、情報化社会の抱える問題や矛盾を真正面からあぶり出していくドラマ「由宇子の天秤」(9月17日から映画館で公開)

③ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の中で起きた大量虐殺事件の全貌を描いたヒューマンドラマ「アイダよ、何処へ?」(9月17日から映画館で公開)

 劇場へ足を運ぶ際は、体調管理・感染予防を万全にしたうえでご鑑賞ください!

◇アフガン難民とスマホ撮影の時宜性が、“家族”という普遍的価値を際立たせる(文:フリーライター 高森郁哉)

「ミッドナイト・トラベラー」(9月11日から映画館で公開)

 今観るべきタイムリーなドキュメンタリー映画であることは疑いようがない。

 2001年9月11日の米同時多発テロを受け、当時のブッシュ政権は「対テロ戦争」の一環としてイスラム武装勢力タリバンが支配する中央アジアのアフガニスタンに攻撃を開始。一時は西側の支援で新政府が樹立するも、やがてタリバンが盛り返し、今年4月には米バイデン政権がアフガンからの米軍の完全撤退を表明。撤退完了予定日の9月11日が迫るにつれ、国外避難を望む市民が空港に押し寄せるなど混乱が深まっている。

 その9月11日に日本公開となるのが、あるアフガンの家族が難民としての3年の旅を自ら撮影した「ミッドナイト・トラベラー」だ。

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 本作の“主人公”である家族は、映画監督のハッサン・ファジリ、その妻で女優・監督でもあるファティマ・フサイニ、二人娘のナルギスとザフラ。ハッサンがタリバンの一員から平和主義者になった男性を題材にしたドキュメンタリーを2015年に発表したところ、内容に憤慨したタリバンはその男性を殺害し、監督のハッサンには死刑を宣告する。最初の避難先の隣国タジキスタンで庇護申請を拒まれたファジリ一家は、欧州連合の域内で難民認定してもらうことを目指し、5600キロの旅に出る。

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 家族が撮影に使ったのは、サムスン製スマートフォン3台。時にはトラックの荷台ですし詰めになることもある難民の旅で、持ち運ぶ家財一式をできる限り減らしたい家族にとって、小さく軽く子供にも撮影できるスマホは最適解だっただろう。また近年のスマホの高性能化もあり、画質が良く手ブレも少ない映像になっているのも好ましいポイントだ。

 当事者でないジャーナリストや映像作家が難民を撮影していたなら、あるいは「暴力的なタリバンと、抑圧される表現者」とか、「難民たちと、滞在先の外国の消極姿勢や排斥運動」といったより大きな構図を強調したかもしれない。だがハッサンたちがスマホのカメラで切り取るフレームは、あくまで家族とその周辺にとどまる。

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 たとえば、難民キャンプ内の狭い共同住居の一室で、「退屈だ」と号泣する長女ナルギス。部屋を訪れた少女の容姿を褒めたハッサンに対し、「不適切よ」と非難し口論する妻ファティマ。そんないくつかのシーンは一見、平時のどこにでもある感情の発露のようだが、表にあふれ出るそうした感情はいわば氷山の一角で、心の水面下には過酷な難民生活の中で鬱積した不安と恐怖が抑えられているであろうことは想像に難くない。

 だが、そうした胸が痛むシーンは比較的少なめで、普段の家族たち、とりわけ妻であり母でもあるファティマの表情は意外なほど明るい。彼女の柔和な笑顔が夫や娘たちの救いになっていることが映像から伝わってきて、観客の心もなごませる。どんな環境であれ、苦難や逆境の時も希望を失わず、笑顔で支え合う家族がいかにかけがえのないものか、その普遍的価値を改めて教えてくれる。

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◇「あなたなら、どうしますか?」正しさの基準を揺るがす“鏡の機能”を有した傑作(文:映画.com 岡田寛司)

「由宇子の天秤」(9月17日から映画館で公開)

 鏡のような映画――鑑賞後、率直に感じたことだ。映画は、観客を空想の世界へと誘い、エンドロール後も、スクリーンの中に心の一部を留め置いてくれる場合がある。だが「由宇子の天秤」は、即座に現実へと突き返し、強烈な問いを投げかける。

 「あなたなら、どうしますか?」と。投影が終わったスクリーンに、必ずや自身の姿を見出すだろう。さて、答えはすぐに言語化できるのか。私には、困難だった。そして、未だに言葉にはできない。“正しさ”の基準を、完全に見失っているからだ。

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 「かぞくへ」の春本雄二郎監督が長編第2作の主人公に据えたのは、確固たる信念を貫くドキュメンタリーディレクターの由宇子(瀧内公美)。テレビ局の方針と対立を繰り返しながらも、3年前に起こった「女子高生いじめ自殺事件」の真相を追っている。そんな矢先、学習塾を経営する父に関する衝撃的な事実に直面。守るべきは、自らの正義か、それとも“大切なもの”か。由宇子は、究極の選択を迫られる。

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 驚くほど綿密に構築された物語。印象的だったのは「身内」という要素だ。マスコミ、仕事仲間、そして、家族。由宇子にとっては、信頼関係で結ばれた取材対象者、秘密の共有を行う女子高生も、徐々に「身内」と化していく。

 ある者が抱える真実は、別の者にとっての不都合な真実。図らずも得てしまった生殺与奪の権利。だが、この「身内」とは「身の内側」も示しているように思える。由宇子が最も向き合うべきものは、「身の内側」にある自身の心となっていく。

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 仕事と私生活――由宇子の姿には、それらの間に明確な線引きがなされていることが伺える。一方で抱えた感情は、境界を軽々しくは飛び越えない(だからこそ、その狭間に位置するような瞬間「風呂を洗う由宇子の後ろ姿」が脳裏に焼きついている)。2つの場は、ストーリーの進行とともに融和し、彼女の足元は揺らぐ。英題の「A Balance」を記憶しておいてほしい。由宇子が必死に試みた「バランス(≒公正さ)を保つ」ことの難しさが、抗いようもない形で証明されていくのだ。

 「私は誰の味方にもなれません。でも、光を当てることはできます」という由宇子のセリフを、取材をする者として、何度も反芻している。「光を当てる」とは、照射しない部分との“差”を明確にしていくということだ。これは武器にもなり、他者を傷つける凶器にも成り得る。選び取った光の当て方は正しいのか。闇に紛れた箇所に「見逃しているもの」、または「見ぬふりをしたもの」はないか。自戒の念を込め、何度でも見返さなければならない作品となった。

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◇歴史は繰り返す。ドキュメンタリーよりも強力に喪失感を呼び起こす衝撃作(文:映画.com DanKnighton)

「アイダよ、何処へ?」(9月17日から映画館で公開)

 第93回アカデミー国際長編映画賞にボスニア・ヘルツェゴビナから出品、ノミネートされた「アイダよ、何処へ?」は今みるとさらに辛く感じる。劇中、スルプスカ共和国軍から逃れるためボシュニャク人が国連の難民キャンプの門に群がっている様子は、実際のニュースで流れていたカブール国際空港で飛行機に群がりタリバンから逃れようとするアフガニスタン人たちの様子と酷似しているからだ。

 この映画で描かれるのは90年代半ば、国連が大量虐殺から住民を守る人道的な防衛手段を提供できなかったという史実であり、本作の15年前に公開された「ホテル・ルワンダ」とテーマを同じくした姉妹品ともいえる。

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 アイダは難民キャンプで働く国連の通訳者で、オランダの国連大佐トーマス・カレマンスのアシスタントである。スルプスカ共和国軍が迫る中、国連の平和維持軍は、海外の上層部の無関心や休暇による支援の欠如に手を焼いていた。

 アイダは仕事の合間に、難民キャンプから締め出された夫と二人の息子たちをシェルターに入れようと躍起になるが、その間に平和維持軍は共和国軍のラトコ・ムラディッチ将軍の要求に屈してしまう。将軍はキャンプに潜む反逆者の戦闘員を探すため、キャンプの中に入れるよう要求したのだ。平和的な申し出を装うため飢えた難民にパンを投げ込む彼は、実在する人物とは想像し難いほど最低な悪役として描かれる。

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 大量のエキストラを投入した本作は、400万ユーロというわずかな予算では考えられないスケールでスレブレニツァの大虐殺を描き出している。さらに驚きなのは、観客が1995年のヨーロッパで起きたこの大量虐殺のエピソードを知らないかもしれないということだ。

 今のところ、メジャー映画の題材にはなっていない。実際に起こった悲劇を映画として再現した本作は大きな喪失感と衝撃を呼び起こし、おそらくドキュメンタリーよりも強力で実感のあるものになっている。

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 映画の最後には現代の設定に飛び、平和なボスニアでアイダは学校の教師としての仕事に戻っている。我々は近代化した異文化コミュニティを日常としてとらえているが、表面下にある恐ろしい記憶や喪失を知っている。

 「アイダよ、何処へ?」は言葉だけでは言い表せないほどの恐ろしい歴史を映す襲撃的な作品だ。そして、歴史は繰り返す。最近のニュースを見ても、この教訓は非常に重要だ。政治的、戦略的な理由が何であれ、世界の国々が紛争から救いの手を引けば、そこで悲劇は起こる。

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