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映画『さよならドビュッシー』が謎解きより〝心解き〟を選んだ理由~『十角館の殺人』実写化のタイミングに寄せて

 推理小説の実写化についてあれこれ綴る、つづきです。
 
 前回はこちら。
御手洗潔の映画『星籠の海』に足りなかったパズルのピース~『十角館の殺人』実写化のタイミングに寄せて~|涼原永美 (note.com)
 

(以下、作家や俳優名等は敬称略とさせていただきます)

 実写化されるなら、原作が好きでたまらないか、原作の良さを最大限生かせる方に手掛けてほしい。ファンとしての切実なお願いだ。
 そんなことを改めて思うのも、綾辻行人による傑作ミステリー『十角館の殺人』(講談社文庫/税別695円)実写化のニュースを聞いたから。そこで、どうしても今このタイミングで・・・と思い、あれこれ書いているのだが、今回は第8回「このミス」大賞受賞作『さよならドビュッシー』の映画(監督・利重剛/2013年)についてである。



(1)原作通りなのに、よい意味で「別の作品」を観た感覚の謎

 

 ――よかった。ブラボーだ。

 映画を観終わってそう思った。
 
 クライマックスで主人公が演奏した「アラベスク」「月の光」が、鑑賞後も頭のなかで絶え間なく流れる。確かにこれは『さよならドビュッシー』だ。原作の良さ、本質を真正面からとらえ、丁寧に映像化している。

 ――でも、なぜだろう。少し不思議な感覚も覚えた。


 これは確かに『さよならドビュッシー』なのだが、同時にまったく別の物語を観たような、原作を読んだ時とはまた違う感動を味わった気にもなったのだ。

 そして少し考え、わかった気がした。

 公開時、映画館に足を運べなかった私は、少し遅れてこの作品を鑑賞したのだが、リアルタイムで目にした早着レビューのなかに散見した「すぐに仕掛けがわかってしまう」「監督はミステリーに興味がないのか」といった声の理由に、ある意味で合点がいったのだ。――と同時に、私自身がこの映画に深く感動した理由も、そこにあると理解した。

 それらのレビュアーと私は、まったく同等に、正当にこの映画を観ていたのだと思う。

 ――この映画はおそらく「メイントリックは大部分の観客が途中で気づくかもしれないが、それよりもっと大切なことがある」という信念のもとにつくられたのだ(個人の見解です)。

 今からその理由を書きたい。

 そしてなぜ、このトリックは映像化だとバレやすいのか。そこには本格ミステリーというものの絶対的なセオリーが関係していることも、後で書きたいと思う。

(2)ここからネタバレ、『さよならドビュッシー』の構造と魅力とは?

 
 今から思い切りネタバレを書きます。犯人も真相も書きます。ので、NGの方はご注意ください(こんなことを書くと読む人も減ると思う。それでもこの映画から原作に対する真摯な想いを感じたので、書き残しておきたい)。

 まず原作『さよならドビュッシー』(中山七里著/宝島社文庫/税別562円)のあらすじは、次のようなものだ。文庫の裏表紙から引用する。

 ピアニストを目指す遥、16歳。祖父と従姉妹とともに火事に遭い、ひとりだけ生き残ったものの、全身大火傷の大怪我を負う。それでもピアニストになることを固く誓い、コンクール優勝を目指して猛レッスンに励む。ところが周囲で不吉な出来事が次々と起こり、やがて殺人事件まで発生する――。第8回『このミス』大賞受賞作品。

中山七里『さよならドビュッシー』文庫裏表紙あとがきより


 ・・・これを読んで、結末を知る人は「あれ? そういえばこの文章って」とニヤリとするかもしれない。

 再び、結論から言おう(大いなるネタバレ)。

 ――この小説、主人公が遥だと思わせて、火事で生き残ったのは従姉妹の片桐ルシアなのである。ある理由で遥と誤解され、火傷を負った顔は整形手術で遥の顔にされてしまう。「あたし」と一人称で語られる小説を、読者は遥だと思って読み進めるが、ラストで真相がわかり、気づいていなかった人は仰天する。とともに、周囲の期待に応えるために遥であろうとしたルシアの苦しみと、自分だけの音楽を奏でたいというピアニストの宿命的な心情に、胸が熱くなる・・・という仕掛けだ。ついでに、中盤で遥の母親が殺されるが、その犯人は誰なのかという謎も明らかになる。

(3)原作の叙述トリックは当たり前だがそもそも映像化が困難


 『さよならドビュッシー』は、推理小説としては叙述トリックに分類されるだろう。同じジャンルで有名な作品としては、それこそ今話題になっている綾辻行人『十角館の殺人』、元祖とも言えるアガサ・クリスティー『アクロイド殺し』(手元にあるのは『アクロイド殺人事件』新潮文庫/税別427円)、ほかにもたくさんあるが有名なところでは伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』(創元推理文庫/税別680円)もこのジャンルに入ると思う。あ、映画化された東野圭吾『ある閉ざされた雪の山荘で』(講談社文庫/税別630円)もそうだ。

 叙述トリックものの映像化は他のミステリーよりずっと難しい。相当うまく作らないと途中で勘づかれてしまうし、それでは駄作と言われかねない。が、バレないように作り過ぎると、結局何を観たのかわからない。
 その点、以前notoで書いた三谷幸喜脚本のテレビドラマ『黒井戸殺し』(『アクロイド殺し』)は、仮に途中でこの人物が怪しいと気づいても、それを上回る謎解きの精度とドラマ性があるから最後まで楽しめる。
 『アヒルと鴨のコインロッカー』も映画化(監督・中村義洋/2007年)されているが、ある人物の表現になんともアクロバティックな方法を採用していて、あれはあれでよく練られている。

 だが、それも『さよならドビュッシー』では使えない。話の構造として、ジワジワではなく、映画の序盤に一発で気づかれる可能性があるからだ。

 この作品のメイントリック、原作ではじつに緻密に書かれているものの、映像化したとたん、あっけなくバレる可能性がとても高い。なぜならば、とくに本格ミステリーでは、以下の人達の存在はもう絶対、絶対に「入れ替わり」「別の人」「その人に間違えられる」を示す鉄板のフラグだからだ。

(1)   一卵性双生児。あるいは双子のようにそっくりな2人。体形が似ていて顔を隠すと間違えられやすい2人など。

(2)   顔のわからない死体。あるいは顔を隠した人物。

 ・・・どうだろう。逆に言うと、たとえば映画でも小説でも、特に本格もので「双子」が登場した場合、結果的に何の入れ替わりもなければ、「じゃあなんで双子出てきたの?」と疑問すら感じてしまう。――ミステリー愛好者ならうなずいてくれるのではないだろうか。

 (2)もそうである。顔が判別不能な死体は、たいていの場合「別の人」だ。ーーだってそうなんだもの。もし本人なら、それがトリックに関係ないのなら、顔が判別不能な理由がない。死体でなくても、たとえば『犬神家の一族』の佐清(すけきよ)もそうだっただろう。これはもう、古今東西のあらゆる作品がそうなのだ。エラリー・クイーンも、アガサ・クリスティーも、個性的な刑事が登場するあの推理ドラマも、売れないマジシャンと大学教授の推理ドラマも、金田一耕助も、金田一一も・・・あとなんかいろいろあるけど、それがセオリーなのだ。

 『さよならドビュッシー』の場合は(2)の変形にあたる。
 たとえば原作未読で映画を観た人であっても、ミステリーに多少の免疫があれば、序盤で大火傷を負った遥(ルシア)の包帯がとれるシーンを観て「もしかして・・・」と思うのではないだろうか。映像というのは、それほどインパクトのあるものなのだ。

(ただし、顔が判別できない死体の場合、身元を隠すため、身元確認を遅らせるために犯人が・・・ということもある)


(4)「音楽」「心身の再生」「謎解き」が3本柱の物語で、どこを掬い上げるか



 それであれば、映画化にあたってミステリーの度合いを下げてでも、それ以外のドラマ性を重視するという選択肢がある。

 原作を読み切って気持ちよく騙された人はそれだけでも満足できるが、この作品の素晴らしさはそれだけではない。大別すると以下の3つの柱が、見事なバランスで作品を構成している。

(1)音楽表現の場面が極めて重要な音楽ドラマ
(2)全身大火傷という壮絶な困難を乗り越えようとする主人公の再生物語
(3)主人公の周辺で起こる事件の真相と、物語全体に仕掛けられたトリック

 この作品は、ノンジャンルの小説として読むなら(1)(2)の要素だけでも素晴らしい。もし(3)の要素が薄かったとしたら、このミス大賞受賞は難しかったかもしれないが、それでも青春小説、音楽小説として読者の心を打ったと思う。

 ――話がそれたが、この3本柱、映像化すると必然的に受け手に与えるインパクトとして(1)の要素が強くなる。実際に音楽が聴こえ、ピアノの演奏シーンが大半を占めるのだから。

 だからそういう意味でもまず音楽が心を打つようにつくる必要があり、それだけでも小説にくらべてミステリ度合いは何割か薄れる。
 実際、本物のピアニストである清塚信也が演じる岬洋介が奏でるピアノは圧巻だし、懸命にリハビリをしながらレッスンに挑む遥(本当はルシア)のひたむきな姿は、橋本愛の熱演もあって胸を打つ。

 
 ただ、それであってもまだ「ラストの謎解きびっくり」に賭けるため、「バレないように、バレないように」脚本を練り上げることは可能だったろう。だがそこに注力したものの、それでも何割かの観客に途中で勘づかれた場合、作品として残る魅力が薄くなる。それこそかなりの賭けだろう。「トリックをいかに成功させるか」という命題だけを与えられているのならともかく、映画として良い作品にしたいと真摯に考えた時、どうするのがベストだろう。

 ならばはじめから、主人公の心を丁寧に描いたほうがいい。少なくとも私はそう思う。だって『さよならドビュッシー』は、主人公の言葉を借りるなら「生きながらにして抹殺された」人間が、唯一自分でいられるためにピアノを弾く物語なのだから。



(5)「1人の人間の生きた証」を描いたほうが増す、全体の説得力

 
 さらに言えば、映画館にいち早く足を運んだ人の何パーセントが原作ファン、あるいはミステリーマニアなのか、という問題もある。

 例えば

(a)25%が原作の読者だとする
 続いて
(b)25%が原作未読だがミステリーに免疫のある人だとする
 さらには
(c)25%が、なんとなく観たけど勘がよくて「もしかして」と勘づく


 ――となると、「ラストの謎解きでびっくりする」人は25%しか残っていない(かなりざっくりとした個人的な見解です)。

 この(c)に関してだが、ある有名作家の面白い見解があるので引用しておきたい。

 アガサ・クリスティー『オリエント急行の殺人』(ハヤカワ文庫/税別860円)の解説を書いた有栖川有栖の文章である。

 ふと想像する。たとえば、ミステリにまったく興味のない人間がシドニー・ルメット監督、アルバート・フィニー主演の映画〈オリエント急行殺人事件〉(一九七四年)を観たら、「こういうことだったんでしょ」と簡単に真相を見抜いてしまうのではないか。いたってストレートな物語なのだから。(中略)現実の世界ではさほど意外でないはずのことが、ミステリの世界でのみ意外性を帯びるというパラドックスが光っている。」

(アガサ・クリスティー『オリエント急行の殺人』/ハヤカワ文庫/p412解説より)


  これはまったく同感だ。たとえばミステリーにまったく縁のない私の母親(70代)が映画『さよならドビュッシー』を観たら、遥の包帯がとれるシーンで、「あのぅ・・・全身大火傷だったら、どっちかわからないよね?」とつらっと言いそうである。もちろん遥のTシャツを着ていたという理由はあるのだが、それにしても「ちゃんと調べたほうがいいんじゃない?」とか言いそうな気もする。いたって真っ当な見解だ。

 ――話を戻すが、つまりこの映画は、たとえ途中で真相がわかったとしても、一人の人間の生きた証として説得力のある話に仕上げたほうが、結果として多くの人の心を打つ可能性が高いのだ。


(6)「あたし〇〇〇です」という告白シーンの大きな意味

 
 「香月遥」として生きなくてはならなくなった「片桐ルシア」の物語。

 これを主軸に映画を撮ったとして、「だからあそこは改変したんだ」と納得できた後半の場面が、少なくとも私には2か所ある。

 逆に言えばそこは、原作ファンとしてできれば変えてほしくなかった場面でもある。それは2か所とも、遥(ルシア)を支えてきたピアニストの岬洋介と遥(ルシア)が真相について話す後半のシーンだ。

 ひとつは、

(1)   岬洋介に「あたし・・・ルシアです」と告白するシーン

 もうひとつは、

(2)   中盤で遥の母親・悦子が神社の石段から転落した時、じつはその場に遥(ルシア)がいたのだが、その時自ら悦子に「あたし・・・ルシアなの」と告白し、それが原因でもめてしまうシーン

 これらの改変は、原作の謎解きに胸を躍らせた人間にとっては好ましくないものだったかもしれない。私も、観た時は「ここ変えちゃうんだ・・・」と思った。この映画を「期待していたがイマイチだった」と評価した人は、このあたりに落胆したのではないだろうか。

 では原作でこの場面はどのように書かれていたのかというと

(1)   は、岬洋介に「お母さんを殺したのは君だ」とズバッと言われるのである(ちなみに映画では悦子は一時重体となり、死んでいない)。
 
 そしてそこからルシアの告白ではなく、岬洋介が「事件の真相」を話す。ここが謎解きとして抜群に面白いし、のちのシリーズに続く「ピアニスト探偵・岬洋介」の魅力が満載といった場面になる。

(2)   は、ある事情から神社にいた遥(ルシア)とばったり会った悦子が、ひょんな流れから「あなた・・・ルシアでしょ!」と責める。

 
 ・・・とこのようになっていて、いずれもルシアからの告白ではない。原作では、ルシアは積極的に自分の正体を告白しようとはしていないが、岬洋介に見抜かれたことで、いっさいを告白し、結果的には心が救われる。

 原作では極めて効果的で、ミステリーファンとして興奮せずにはいられない「解決編」だ。――が、このまま映画にしたら、ルシアの苦しみを表現しづらくなってしまったかもしれない。

 そしてまた、原作と映画では、時系列の改変がある。


(7)原作を読んだ方気づきました? 映画で改変された時系列

 
 原作では、コンクールで遥(ルシア)が肉体的には苦しみながらも見事な演奏を披露した後で、謎解きがはじまる。

 ところが映画では、コンクールで演奏する前の楽屋で、遥(ルシア)と岬洋介が話を始めるのだ。理由は、遥の指が動かず、このままでは弾けそうにないところまで精神的に追い込まれたからだ。

 そこで遥が、苦しさに耐えかねて岬洋介に告白する。「あたし・・・ルシアです」と。

 そしてすべてを告白し、ルシアは本当にルシアとなって「アラベスク」「月の光」を演奏するのだ。それが映画のクライマックスである。

 ルシアは姉妹同然だった遥のために約束の「月の光」を演奏しながら、同じく既に失った両親のこと、優しかった祖父のこと、幸せだった少女時代を思い出し、人生最高の演奏をする。それを見て、涙を流す岬洋介。

 だから楽屋で行われたのは、謎解きではなく心解きなのだ。

 岬洋介はある理由でかなり前から遥の正体に気付いていたが、何も言うことなくレッスンを続けた。なぜ警察に突き出さなかったのかと問うルシアに映画の岬洋介は、「ぼくはピアニストなんだ。(中略)君のピアノがどうしても聴きたかった」と答える。これはぐっとくる。

 ちなみに原作では、「(前略)聴いてみたくなったんだよ。自ら安息と自由を捨て、その上で恐怖と絶望の中から立ち上がろうとする人間がどんな音楽を奏でるのかをね」(p405)という、もっとシビアなセリフだ。

 原作の時系列は推理小説としては申し分ないものだけど、映画にするならすべての告白を終え、心だけでも片桐ルシアに戻ってからピアノを弾いたほうが、映像的にもいい。映画のクライマックスに打たれた人ならそれは納得できるだろう。私は泣いた。

 また、(1)も(2)もルシアが自ら「あたし・・・ルシアです」と告白しているのは、16歳の少女が背負った過酷な運命を思うと、当然の成り行きだとも感じる。もし自分が同じ立場に立ったら・・・到底抱えきれない。やっぱり告白してしまうかもしれない。そういう意味で、ルシアという少女の心の辻褄を考えると、この改変も納得がいくのだ。

 映画の前半では、けっこう時間をかけて遥とルシアの少女時代のシーンを入れているなぁと最初は思ったけれど、これは香月遥と片桐ルシアという2人の少女の過酷な運命を暗示するために必要だったとわかる。


 ミステリーとしては、これがあるから「2人がまるで双子」というインパクトが映像として表現されてしまうし(髪型や服装、背格好が同じなのだ)、「入れ替わりを暗示しているようなものじゃないか」と感じた人もいただろう。それでも、上記の理由に照らし合わせれば必要な場面だ。選択肢というものは、ひとつの作品をつくるうえで数多くあるだろうが、私は監督がドラマ性を選んだのだと思っている。

 ――それにしても、この映画最大の魅力のひとつは清塚信也でなないだろうか。


(8)本物のピアニスト清塚信也の存在感と、音楽家としての説得力

 
 よくもまぁこんな「本物も本物のピアニスト」をキャスティングできたものだと思う。
 おかげで、原作にあった岬洋介のコンサートシーンなどを削っても、練習室で弾いているだけで凄い演奏家というオーラが伝わりまくりだ。

 ラストでルシアに優しく言う「ぼくはピアニストなんだ」というセリフも、これ以上の説得力をもって言葉にできる人はいやしないだろう。どんなに演技のうまい俳優をもってしても、これは無理だ。

 そしてまた、「どうしてもその演奏を聴いてみたい」「どうしてもピアノが弾きたい」というパッションが、事件とか常識とかそんなものを圧倒的に上回るところが、音楽・・・いや何かに魅せられた人間の性(さが)をよく描いている。
 そういう意味でもこれは心の、情熱の映画だ。――誰にでもそういうところがあるだろう。どうしても観たい、書きたい、会ってみたい、行ってみたい、触れてみたい、作ってみたい・・・。好きなこと、大切なことは諦められないし、諦めたら自分でなくなってしまう。

 原作では岬洋介が繰り返し語る、次の言葉にこの物語の本質が集約されている。

重要なのは、その人物が何者かではなく、何を成し得たかだ
君が香月遥であろうと片桐ルシアであろうと僕には何の関係もない」
「審査員も観客も君の名前なんかには興味はない。君のピアノ、君が曲に込めた思いに共鳴したんだ(後略)」

 ドラマとしての本質と、本格ミステリーとしての仕掛けがみごとに融合しているのが『さよならドビュッシー』の大きな魅力だ。そう、私達はみな、誰であるかより、何を成したか(成したいか)が大切なのだ。あらためて、胸に迫る作品である(『ハリー・ポッター』でも、ダンブルドア先生がそんなことを言ってたような)。

(9)アラベスクで思い出す、島田荘司『異邦の騎士』


 最後に余談だが、ドビュッシーの「アラベスク」と聞いて、私が真っ先に思い出すのは島田荘司の『異邦の騎士』(講談社文庫/税別695円)だ。

 作中の良子という人物が「アラベスク」が好きだと話す場面がある。決して幸せとは言えない人生をおくる人間が、好きな音楽についてキラキラと話す場面だけに印象的だし、すごく切ない。
 
 だから『さよならドビュッシー』を読んだ時、「アラベスクが登場するミステリーなんて良いなぁ」と心が高鳴ったのだが、文庫版の解説に「著者の中山七里は(中略)二〇〇六年、愛読してきた島田荘司の姿をナマで見た体験が引き金になり(中略)小説を書きはじめた」というエピソードが紹介されていて、驚いた。

 関係はあるかもしれないし、ないかもしれない。が、個人的には「繋がってるなぁ」とウキウキした出来事であった。

 好きな小説や映画には、いつも幸せをもらっている。


 つづきます。


 つぎは塩田武士原作の映画『罪の声』について書きます。
映画『罪の声』は原作の行間を的確に映像化した傑作~こんな人生があったかもしれないと思うこと~|涼原永美 (note.com)
 



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